「小さないのち」会報--会報 No.62
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2006年08月11日
会報 No.62








こころの扉(会報41号)              平成15年 月

平成18年6月

発行 小さないのち

 
こころの扉(会報62号)               

 

 


4月29日の公開講座「お母さんが語るいのちの授業」から

 

「聖茄のおもいで」                 野口 ゆかり

 


私には3人の娘がいます。きょうは長女の聖茄(せいか)のことをお話ししたいと思います。聖茄は、私が19歳のときに生まれました。とても元気で目の大きな女の子でした。生まれたとき、「生まれてきてくれて本当にありがとう」という気持ちがこみ上げて、自分の赤ちゃんがこんなにかわいいと思ってもいませんでした。そして、これからの子育てがとても楽しみになりました。

 

毎日布オムツをたくさん洗濯して干すと、ベランダにオムツがひらひら揺れて、すがすがしい気持ちになります。たたむときはきれいに折りたたむのが好きでした。

とても足の力が強くて、足をばたばたさせるので、すぐにお布団の上のほうに上がっていって、頭をベッドの柵に押し付けて、身体がくの字に曲がっていました。よくオムツも外れて飛んでいました。

 

生後7ヶ月で、保育所に行きました。トンネルくぐりをしたり、ブロック遊びをしたり、先生手作りの小麦粉ねんどをしたりと、楽しく元気よく通っていました。特に食べることが大好きで、いつもぶくぶくこえていて、家ではいつも、「マンマ、マンマ」とお茶碗やお皿を机にバンバンたたきつけて、おかわりしたいと私に伝えてくれていました。保育所では、時々お友だちの食べているものも取り上げて食べていたそうです。

 

 2歳半で妹が生まれました。泣いていたら、お姉さんらしく妹のところへかけ寄り、おもちゃを鳴らしてあやしてくれました。オムツを一緒に替えたり、ベビーカーをいつも私と押して歩いていました。大きな犬が駆け寄ってくると、「ダメ」と手を大きく広げて妹を守っている姿が、とてもたくましかったです。

 

3歳ごろから、ウルトラマンが大好きで、変身スーツを着て一緒によくウルトラマンごっこをしました。ウルトラマンショーを見に行くと、すごく喜んでポーズをとり、写真もたくさん撮りました。怪獣や恐竜を集めて、いつもウルトラマンと戦わせていました。

男の子のようにカブト虫やくわがたが大好きで、私と世話をしてとてもかわいがり、時々カブト虫に挟まれて泣いていました。夜、カブト虫と一緒に寝たいと言って、かごから出してしまい、ブンブン飛んでいたのを追いかけてつかまえたりもしました。

えさの蜜は一緒に手作りで作りました。

真っ白なハムスターを飼っているときは、ララという名前をつけてかわいがって、よく手に乗せて遊んでいました。死んでしまったとき、公園の木の下に埋めていたら、とても大きな声で泣きました。お墓に行ってはきれいな花びらいっぱいに飾ったり、木の実を飾ってかわいくしてあげたりしていました。「ハムスターが楽しく遊んでいる天国があるといいね」と、気づかっていました。

 

幼稚園に入った頃には、おり紙や、お絵かきが上手になり、やっこさんや手裏剣を折って私によくプレゼントしてくれていました。お友達と遊んでいるときは、いつも恥ずかしそうにはにかんで笑っていました。なわとびを飛んだり、プールで顔をつけるのが好きで、家のおふろでよく練習していました。妹に「こうしたらできるよ」と、やさしく指導していました。

 

クッキーづくりが好きで、作ったクッキーはお友達や、大好きな近所のお姉さんにあげるのが好きでした。動物の型抜きをして、目をつけたり、しっぽをつけたり、かわいく飾り付けして、私よりとても上手でした。

バレエを習い始めて、体が硬くてつらい練習もめげずに習っていました。あこがれているバレリーナの衣装を着たくて、発表会前は一生懸命、毎日練習に参加して踊っていました。本番で踊る前は、すごく緊張して泣いていましたが、がんばって最後まで踊れました。

 

小学校にあがってコマなし自転車にやっと乗れるようになり、いつも乗って遊んだりしていました。お友達ともけんかなどしなくて、いつも仲のいい子とお絵かきを見せ合いっこして、お手紙交換をしたりしていました。「大事にしているんだ」と私が言うと、笑いながらうんとうなずいていました。いまも机の引き出しにはお友だちからのお手紙がたくさん入っています。

 

学校の宿題などは、いつも夕方遅くまでかかりながら、ゆっくり丁寧に字を書いていました。外で遊ぶより家の中での遊びが好きで、いつも自由帳にお絵かきをして、私たちに見せてくれました。特に聖茄は、自分で絵本を作るのがスキでした。物語を書いて、自分で小さく絵本にして、パパのおたんじょう日にプレゼントしていました。

 

つるを折るのが上手で、鶴をつなげて私にプレゼントをしてくれました。つるの折り方は、広島へ修学旅行に行く6年生のお兄さんお姉さんたちが、クラスを回って教えてくれていました。それからは、聖茄は家でも鶴をよく折るようになりました。聖茄が折った鶴も、広島に持って行ってくれました。

 

冬には縄跳びのテストがあるので、練習してうれしそうに飛んでいました。「ママー 数えてー」と外から呼ぶので、飛んでいるそばで何回飛べるか数えてあげると、20回くらい飛べるようになっていました。なわとびは、それほど得意ではないのに、テストが終わってからも、よく飛んでいました。

 

2年生のとき、クラスのみんなでよもぎもちをこねて食べたそうです。先生から作り方を教えてもらって、とてもおいしくできたので、また家でも作りたいと言ってました。「おいしくできるようにもう一度先生に作り方を聞いてみる」って言ってましたが、恥ずかしがりやなので、聞きに行けなかったようです。よもぎはたくさん家の周りにあるので、摘みに行く事にしていました。

 

聖茄はお友だちとけんかをしたことがありません。妹とけんかしても自分からけんかはやめて、譲ってあげてました。なかなか自分の意見をはっきり言う子じゃなかったですが、楽しかった遊びでタカオニをしたときは、いつも話をしてくれました。お友達との楽しかった出来事をうれしそうに報告してくれました。

 

学校から家まで遠いので、帰り道は聖茄が作った「こわい話」をお友だちに聞いてもらいながら帰ってきていたようです。よくおじいちゃんが聖茄にこわい作り話を聞かせてくれたので、それを自分なりに創作していました。聖茄にとって楽しく過ごせる大切な時間でした。

 

海へいったときは、楽しそうに顔をつけて泳いでいました。2年生のテストではなかなかクロールが泳げなかったので、少しでも泳げるようになりたいと、海や琵琶湖で練習していました。お友だちが水泳教室に通っていたので、聖茄も行きたがっていましたが、ちょうど私が忙しかったので、4月から行こうねと先延ばしにしました。

2年生が終わった春休みに、夜寝る前、歯磨きをしていたとき、急に足が震えだして、聖茄は倒れてしまいました。私はすぐに救急車を呼び、大きな病院に行きました。そこでレントゲンをとって、頭に大きな腫瘍があることがわかり、急いで手術をすることになりました。

がんばって!もうすぐ3年生になるんだから、元気に学校に行こう!と回復を祈りました。でも、手術中に容態が急変して、命が危ないと聞かされました。元気だったのに、倒れる日の朝も縄跳びしてたのに、晩御飯もたくさん食べたのに、なんで!と思って、信じられませんでした。

 

もう回復が難しいとわかってから、主治医の先生は、私たちが聖茄のそばで過ごすことができるように、集中治療室から小児病棟に移してくれました。その病室で私たちは、意識がない聖茄にクマの子ウーフの本を読んだり、「きょうはいい天気だね」と語りかけることができました。妹たちにも病室で一緒に過ごすことができ、「お姉ちゃん早く元気になってね」といつも呼びかけていました。

 

寝たきりになると、同じ向きで寝ていたら身体に傷ができるようになるので、2時間おきに看護婦さんが体の向きを替えてくれました。看護婦さんはいつも聖茄に声をかけてくれて、「せいちゃん、せいちゃん」と呼びかけてくれました。点滴をするときも、「今から点滴するね」って話してくれていました。

いつも身体をていねいに拭いてくれて、足湯をしてくれたときも「せいちゃんきれいになったね」と話しかけてくれました。髪の毛をシャンプーしてくれているときも、「せいちゃん気持ちいい?」と聞いてくれました。

 

私は看護婦さんから、この病室で聖茄のためにしてあげられることがあることを教えてもらい、看護婦さんと一緒にできたことがとてもうれしかったです。もう命が長くないという説明を受けてはいたけれど、私は親が諦めたらだめだと思って、「早くよくなって一緒に帰ろうね」と思いながら、聖茄の介護をしていました。

 

聖茄は、妹が生まれるときに立会い出産をしました。生まれたとき、「かわいい〜かわいい〜」と何度も言っていました。生まれた瞬間の「オギャー」という声をまねして、こんなふうにして産まれてきたねと、いつも真ん中の妹とまねをして、とてもかわいがってくれていました。離乳食を食べさせてくれたり、オムツを取り替えてくれたり、一緒にお風呂に入れて髪の毛をシャンプーしてくれたり、とても助かりました。

 

そして私が働き始めた頃、3時間ぐらいいつも面倒を見てくれ、抱っこしてゆらゆら揺らして寝かしつけてくれていました。本当に小さなお母さんをしっかりしてくれて、聖茄には我慢させて、迷惑かけたんじゃないかなと思っています。それでも、私が仕事に出かけるときは、玄関まで送り出してくれて、いつも「ママ。気をつけて行ってきてね」と言ってくれたことが今でも頭の中にあります。

 

病院で入院しているときは、みんなが折ってくれた千羽鶴を励みに、聖茄は生きようとがんばっていました。長い入院でも必ずもう一度学校に行ってみんなと会えるのを楽しみにしていたと思います。会えなくなったけど、みんなが一生懸命願いをこめて折ってくれた千羽鶴はとてもうれしかったです。

 

 聖茄が亡くなる日、お医者さんがいっぱい聖茄の周りを囲んでいると、私はなんでこんなにたくさん来たんだろうと思って、それでも大丈夫だと思っていて、聖茄が亡くなることがまだ信じられませんでした。だから、聖茄が亡くなったとき、周りの人はみんな泣いているのに、私は涙も出ませんでした。身体はまだ温かいのに、本当に死んでしまったのかなと、このときは自分の子どもが死んだということがまだわかりませんでした。

 家に連れて帰って、聖茄の手をさわったとき、冷たかったので、ああ本当に死んじゃったんだ、と思いました。

 

聖茄は「思い出のアルバム」という曲が好きで、鍵盤ハーモニカでよく演奏していました。お葬式のとき、担任の先生はキーボードを持ってきて、この曲を弾いてくれて、みんなで歌って送り出してくれましたね。いまでもこの曲を聴くたびに、みんなが歌ってくれたことを思い出します。

 

3年2組のクラスになって、聖茄は一度も通うことができなかったけれど、聖茄の席はいつもありました。聖茄の机の上にはクラスのお友達が持ってきてくれたお花が飾られていました。そして3年2組で写真を撮るときは、聖茄の写真をいつもクラスのお友だちが持って一緒に写してくれて、撮った写真を家に持ってきてくれました。そんな先生やクラスの子たちの心配りがとてもうれしくて、いつもありがとうという気持ちでいっぱいでした。聖茄も喜んでいると思います。

 

 聖茄が入院しているときは、あまり聖茄の病気のことは調べてなかったので、亡くなってから初めて本を読んだり調べるようになりました。テレビに出ていた脳神経外科の先生が海外から帰って来ることがわかり、お手紙を出したら会ってくださると言うので、東京に会いに行き、詳しく病気のことを聞きました。また、脳腫瘍の勉強会に参加してみると、聖茄と同じ年頃くらいの女の子やもっと小さい子ども達が、自分の病気のことを詳しく知ろうとして参加していました。そこで私もたくさん分かるようになり、少しずつ病気が理解できました。

 

聖茄が亡くなって間がないときは、どこかに出かけるのも食べに行くのも、ものすごく悪いなという気持ちがあり、あまり出かけることがなかったのですが、このままでは聖茄が悲しむんじゃないかと思うようになり、聖茄の写真を持って、聖茄の大好きな海に行ってイルカと一緒に泳いだり、小さい頃よく行った動物園で山羊や馬にえさをあげたり、楽しいことをたくさんするようになりました。

 

 8歳のお誕生日のとき、聖茄と一緒に作ったチーズケーキは膨らまなかったけれど、聖茄が亡くなってから私はチーズケーキをよく作るようになり、今はお店で売っているケーキほどおいしく作る自信があります。お供えしていると、聖茄が「すごくふくらんでるね」と言っているようで、「今はすごくじょうずでしょ」と、仏壇に話しかけます。

 

3年生になった5月、はなみずきの木を植樹してくれましたね。みんなで土をかけてくれている写真を見ました。みんなの気持ちがうれしかったです。花が咲いてくれるのが楽しみで、市役所の園芸相談のおじさんに聞きに行ったら、「来年は咲かないよ。花が咲くのは2、3年後だよ」と言われました。でも次の年の5月、枝全体に白いきれいなお花が咲きました。それを見て私は、聖茄が喜んで咲いたんだと思いました。

冬には赤い可愛い実がなりました。私はたくさん拾ってきて聖茄の祭壇に供えてあげました。これからも毎年、花が咲き、実がなるのが楽しみです。

 

聖茄が亡くなって少ししてから、32組のお友だちからお手紙をもらいました。「鉄棒で前回りができなかったけれど、聖茄ちゃんのことを思ってすると、できるようになりました」。と書いてくれていました。ほかには、「やさしくしてくれてありがとう」など、みんながお手紙や色紙に書いてくれたので、私は少しずつ元気が出てきました。

 

聖茄が亡くなって、たくさん悲しい思いをしたぶん、人の優しさや、いままで気づかなかった相手の気持ちもわかるようになりました。それまで置き忘れていたことを立ち止まって考えたり、人事に思っていたことが、自分のことのように考えられるようになったたのも、聖茄のおかげだと思います。

 

いま私は、目の不自由なかたのために本を読む「朗読ボランティア」をしたり、買い物や病院に一緒にいくボランティアをしています。聖茄がもし生きていたら、50%の確率で目が見えなくなるとお医者さんから言われていたので、目の不自由なかたのために何か役に立つことがしたいと思うようになったからです。

 

もうすぐ修学旅行で広島に行くそうですね。広島ではみんなと同じくらいの年の子どもたちが原爆でたくさん亡くなりました。聖茄は折鶴を預けるだけで、自分で広島まで持っていくことはできなかったけれど、修学旅行では被爆体験のかたのお話をしっかり聞いてきてくださいね。

 

聖茄は突然亡くなってしまったので、みんなにお別れができませんでした。楽しくみんなと遊べてうれしかったと思います。お友だちのみなさん、お友達のお母さん、担任の先生、病院の先生方、看護婦さん、家族や親戚の皆さん、ありがとうございました。みなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

私はこれまで聖茄のことを自分で話す機会がありませんでしたが、聖茄が出会った皆さんに、聖茄のことを忘れないでほしいと思ってきょうお話しをしました。聴いていただいてありがとうございました。これからも私たち家族は聖茄と共に生きていこうと思います。きょうはお忙しいなかを来ていただいて、ありがとうございました。


 

 

 

―編集後記―

この講演会は、「同級生に娘のことを話したい」とお母さんが知らせてくれたことをきっかけに計画を進めました。

私自身は、皆さんから教えていただいたお話しを元に講演する機会も多かったのですが、ご自身で語りたい或いは文章にしたいと思われる方の応援をすることが、私にとっても会にとっても最もうれしいことです。

 何かしたい!と思われる方はお知らせください。できる限りお手伝いしたいと思います。そして普段から、できるだけお家を訪ねるか、私どもの家にお招きして、ゆっくりとお気持ちやお子さんのことをお聴きするようにしていますので、用件に関わらず遠慮なくご連絡ください。                坂下 裕子

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  (以下は割愛します)