新潟看護大学

2004/12/30

皆さんの感想文を拝見して

小さないのち 坂下 裕子

 

感想文を読ませていただき、ありがとうございました。

何人もの方が、私が話したことよりももっと人間的に豊かに、もっと深い考えをもって書いてくださっていることに、驚きと感動を覚えました。ほんとうに嬉しかったです。

 

中略

 

課題は自身にかかっているのだといつも思います。私には自助会運営者として、皆さんには医療者として。

お互いに、結果を対象者に望むのではなく、そのときどきの自分のあるべき姿を見据えていければと思います。

いのちという、人間の力では動かすことのできない存在を前にして、もっと真摯に、そして謙虚に。

以下に併記する引用文は、“解決”は感じられず、“考える自分”が感じられるものです

 

皆さん感想からの引用

  • 坂下さんは、「いのち」という言葉を頻繁に使っていたように思う。いのちという文字にはどのような意味がこめられているのだろう。諸説いろいろあるようだが、その一つとして「息の道」あるいは「息の内」という言葉からきているらしい。
    私たちの命は、死ぬと一個の生物としてはなくなることになる。でもたとえ肉体が目の前から消えてしまっても、記憶や思い出は生き続ける。
    それを大切に覚えている人にとっては、心のなかでずっと「息づいているもの」、それがひらがな表記の「いのち」という言葉の中にこめられているのではないかと私は感じる。
    「いのち」というのは、消滅するものでも断絶するものでもなく、それを記憶する人の心のなかにずっと消えずにともっている灯りのようなものではないかと思う。
    そして坂下さんは、「いのち」というものの大切さをもっとも身近で感じているからこそ、その言葉に私たちは引き寄せられるのではないかと思う。
    いまここで過去を蒸し返し、どうしてなのかと反芻してみたとしても、亡くなった子どもが帰ってくるわけではない。
    人ひとりの「いのち」はそんなことで回答が得られるほど簡単なものではないからだ。
    しかし、医療に携わる者にとっては、その大切さは人一倍身にしみて分かっているものであると私は信じていた。
    そもそも医は忍術といわれる。それは、命の危機に迫っている人や家族に対し、思いやりやいたわりのこころをもって回復に対する援助を行っていく行為指すのではないだろうか。
    生物として誕生した際、同時に設定された死だけは容赦なくやってくる。
    しかし、同じように、生きるということに関しても、最期に懸命に生きていくための環境を与えられた人と、そうでない人とでは明らかに「いのち」を生きているという充足感に差が現れてくるのではないだろうか。
    そしてもしそれが、医療の場の不足によるものであると、これほど悲しいことはないし、また仮に、医療の場が確保されたとしても、そこに携わる医療関係者一人ひとりが「いのち」の大切さ、尊さの意味を理解していなければ、そこを利用する側にとってこれほど悲しいことはないだろう。
    「いのち」にはマニュアルはない。これは一人ひとりが悩み、自分自身に問いかけながら考えていかなければならないものだ。
    もし余命いくばくもないという子どもたちと接することになっても、その子どもがこの世に生きていたことを幸せな体験ととらえて亡くなっていけるような接し方ができるように、自分自身も「いのち」への模索をこれからも続けていきたい。そして一人ひとりのぬくもりを身近で感じ、子どもたちやご家族と共に、その大切な「いのち」を支えていけるような援助を目指していきたいと思う。
    (全文ではなく、これは中略しながらの引用です)
  • 情報提供の際も、その時期は適切か? 本当に必要な情報なのか?などを考慮し、家族の希望を聞き家族が自己決定できるように配慮していく必要がある。
    −中略ー
    そのうち、自分なりに何に困っていてどんな情報を欲しているのか分かってくるかもしれない。
    そういう面で、看護師は情報のポケットを作り、たくさんの情報を必要なときに適切に提供できるようにしていることが大切だと思う。
  • 患者の尊厳を守るために患者自身の言葉を尊重するのは当たり前のことであるが、患者は一人ではない。
    患者を取り巻いているものはたくさんあり、その中でも家族は大きな割合をしめている。看護師が家族の尊厳を守ることにより患者の尊厳をも守ることにつながっていくのではないかと私は思う。
  • その時その時、家族の気持を察して適切な対応をするということは相当に難しいことだと思う。
    だからといって、傷つけるのを恐れて不相応な言動や腫れ物に触るような対応をするのは違うと思う。
    失敗を恐れず突き進めとまでは言わない。場当たり的な対応ではなく、家族の気持に共感する気持ちがあれば、とるべき行動が見えてくるかもしれないし、常に真摯な姿勢で向き合えば、家族に不快を与える事はないのではないかと思う。
  • 親の気持ちに報おうとすれば、適切で迅速な処置や対応が考えられると思う。
    医療者にとって運ばれて来た子どもはそのとき初めて会った一人の患者であるが、家族にとってみれば一緒に生活してきた大切な家族の一員である。
    気持ちの格差がうまれることは仕方のないことかもしれないが、医療者として助けたい、どうにか楽にしてあげたい、私たちに何ができるのだろうかと考え、責任ある行為をしていかなければならない。
  • 看護者は、それぞれの選択に沿った援助を行うことが大切である。しかし、ただ家族の選択に任せるのではなく、その子どもと家族が残された時間のなかで一層家族の絆を深めていけるような過ごしかたについて、家族と率直に話し合える看護者を目指したい。
    ターミナル期の看護はつらく、緊張の大きい仕事であるが、子どもと家族の不安や悲しみから目を反らせることなく取り組むことが大切だ。
  • 愛情は決して数や量で計ることはできない。親は常に子どもに一心の愛情を注ぎ、育て、そして親も子どもからたくさんの愛情や幸福をもらい、子どもに支えられて生きている。
    小児看護にとって、家族へのケアは欠かせないことであり、子どもへの看護は家族ヘの看護でもあることを知った。
  • 患者や家族は、医療にかかるということで日常より落ち込んだ状態にあるだろう。
    看護師が期待外の行動をとった場合に喪失感が大きくなることを忘れてはならない。
    落ち込んでいるときに求めるのは、悩みを半分もってくれる優しさと、自分を理解してくれる心である。
    その優しさを内包しているということ、心の支えになりたいという思いをもっていること、そして、よりかかれる存在なのだと患者に理解される態度をとることが大切だと思う。
  • 看護師―専門職者である前に、一人の人間として同じ感情を分かち合うということがまず求められているのではないかと思う。
    もちろん、看護師としての技量を最大限生かし、仕事がきちんとこなされていることが前提である。私は、どんなにベテランの看護師になっても、仕事と割り切ったものはない人間味のある看護を提供していきたい。
  • 子どもが重症である時にできる限りの手を尽くして、子どもの命を守ることがまず一番大切である。
    家族の思いと一緒になってその子を救いたいという真剣な気持ちで看護を行うのである。しかし、あらゆる手を尽くしきった末に子どもが亡くなった場合、治療や処置はそこで終わってしまうが、心の看護はその先もずっと続いていく。
    家族が悲しみやつらさを背負いながらまた新しい生活を切り拓いていけるように看護者は(そばで)寄り添い、気持ちを受け止め、一緒に少しずつ歩むことが大切である。
  • 子どもを亡くした人にとって一番よいことは、その子どもがすぐに生き返ることだと思う。しかし私たちは子どもを生き返らせることはできない。
    遺族と立場を入れ替わることもできない。私たちにできることは、亡くなった子どもが天国に行けるように祈ることと、残された遺族に寄り添い、共に悲しむことの二つだと思う。
  • 医療者は、家族全体の背景を見守っていかなければならないだろう。
    教科書どおり、マニュアルどおりではなく、子どもを亡くすということがその人にとってどのようなものかということを、家族の背景を見守りながら理解することが大切であると思う。
  • 医療者は、親が一生の一大事に直面しているということを認識し、病院での対応が親のその後の人生に大きな影響を与えることを理解しなければならないと思った。
  • 生前にどのような看護を行っていたかによって、その後に残る家族の思いにも差が出てくると思った。
    よって、死後のケアが意味あるものになるかどうかは、生前に行われていた看護の質によって変わってくるものだと思う。
  • 私たちは、それぞれに合わせたペース、距離、時間でその人が発する言葉に耳を傾け、言葉をもつことが必要と思う。
    そこからお互いの気持ちが伝わるのではないか。看護は、何かをすることだけが看護ではないのではないか。
    そして、出会う家族、人々はみな違って、何通りもの看護のかたちがあると感じた。
    私たちは、その一つひとつの場面で看護の視点で、ある程度予測し対応していくことは大切であるが、話を聞いたり本を読んだりして、家族にとっても今までにない未知の体験のなかで不安や恐怖と闘っていることを知り、家族と精神面や行動面で歩幅を合わせて援助していくことが「寄り添う」ことなのかなと感じた。
  • 看護者が家族とともに気持ちを表出しあうことも看護であると考える。しかし、無理に表出させるのではなく、見守り、待つということが必要である。
  • 途中で口を挟んでしまい、誰かと比べての評価をしてしまうのはどうしてだろうか? それは、「苦しんでいる人を放っておけない」「どうにか助けてあげたい」気持ちからだと思う。
    そのような気持ちは、現状に留まることを許さない。
    悲しむ気持ちを悪とし、十分悲しむことを許さない。対象者の気持を受容し、悲しむ気持ちを支え、あるがままがいいことを伝えることが必要なのではないかと思う。
  • 医療者の立場として、「なんとかしてあげなければ」という考えが出てしまい、共感以上のことを与えようとしてしまう。
    当事者の気持ちを完璧に理解し、その解決策を考えようとする。しかし、求めていない言葉は、ただ悲しさを増すだけのものになってしまう。
    医療者に求められているものが何なのか、そこをしっかり把握することが重要である。これはどんな場合においても、看護を考えていくうえで見逃してはいけない部分である。
  • 悲しみや傷みといった主観的感情は、客観的に判断したり比較したりすることはできないはずである。
    「お気持ちはわかります」と言うことと、共感というのは少し違うと思う。
    −中略−
    自分の気持ちが相手と共に「そこにあること」が共感ではないだろうか。
    人間を相手にしている場合、答えが一つではないことはごく当たり前のことである。彼らが今在るそのままを受け止めて、自分もそこに居ることが看護ではないだろうか。
  • 人それぞれに感じ方が異なるのは当たり前である。その人がいま・なにを望んでいるか、どうあってほしいのかを感じる力を養うことが大切であり、それを支える根拠となるものは、家族とのコミュニケーションから得られる情報、そして何より信頼関係であると思う。
    共感は、重要なコミュニケーションの要素である。同情とは援助者が対象者の感情や事情を取り込み、あたかも対象者のごとくなっていることであり、これは共感とは異なる。
  • 医師や看護師は、遺族に大してどう接していけばいいか分からず、関わりを避けたくなるかもしれない。
    しかし、遺族はそれよりももっと大きな悲しみのなかにいることを忘れてはならない。医療者も悲しみを表現し、泣いてもいいと感じた。
    辛くてもこの現実と向き合うことで遺族、そして小児に対しての謝罪となるのではないか。
    (坂下注:この謝罪とは、人としての気持ちの上のものと捉えています)
  • 絶望している母親を目の前にして、看護者が「自分はこの人に対して十分な声かけもしたし、もうできることは何も無い」と母親を放置してはいけない。
    看護者は、こうした母親を早く立ち直らせようと励ますのではなく、母親自身で悲しみを背負いながらよりよく生きていく方向をみつけ出せるように援助し、いかに生活につなげていくかが大切だ。
    もはや言葉では足りない。気持ちを寄り添わせていくことが必要であって、明らかに援助をしているというようなものは必ずしも必要ではないのである。
  • 一人っ子でも兄弟がいても、その家族には同じくらいの悲しみや辛さがあるということを実感した。母親から「息子が憎くて仕方ありません」というような言葉が出るほど悲しいことはない。
    そこまで追い詰められていたのだと簡単に片付けられるものではなく、そのような気持ちになるまで母親を支える環境がなかったということが問題である。
  • (子どもの死を)生物学的な視点からだけみてしまうのではなく、両親と共に、素直に悲しみを共感し、寄り添うことで、いまを耐える支えとなりたい。
    グリーフケアは、その子が受けた医療のなかで必要とされるものであり、後になってできることはほとんどない。まさにその時のケアをしっかりと行えるようにしたいと思った。
  • 実際の病院での流れを見てみると、一人の患者に対して集中してケアを提供することは時間的にも人材的にも難しいだろう。ではどうすればよいのか。
    それは、一人ひとりが「いのち」の大切さを学び、自分の中の生命観を培うことである。
    必要なものは、看護を提供する技術よりも(→だけでなく)人を思いやるという心であり、その心が患者やその家族に何かを伝えるのである。
    これは簡単に培えるものではない。さまざまな人と出会い、いろいろな本やテレビ(→報道)などから影響を受け、少しずつ得られていくものではないかと思う。
  • 「命」は、生物学的に死んでしまうと同時に無くなってしまうもののように感じる。医療はこの「命」を守るためにまず施されるものであると思う。
    一方「いのち」は、その人の生を感じられるすべてで、死では終わらず、その人自身が亡くなっても誰かの心のなかにあり続けるもののように感じる。
    医療者に足りないのは、この「いのち」への対応ではないか。
  • 精神的サポートをするために、私たち医療を提供する者たちは、人間の尊厳や倫理観、人を思う気持ちを常に大切にすることが重要であると感じた。
    実際の体験談や経験を患者の家族から聞かせていただいたり、ニュースや社会問題に関心をもつことが必要なのではないだろうか。
    一人ひとりが「いのち」について関心をもち、深く考えていくことが大切なのだと思った。
  • 看護師も人間であり、悲しみや辛さを感じる。家族とともに涙するというのは、看護師自身の成長にもつながるのではないかと思った。
    −中略―
    医療従事者は、患者や家族が納得のいく医療や援助が得られるようにしなければならないと思う。
    看護師には看護師にしかできない家族への援助がもっと多くあるに違いない。
  • 看護師も人で、子どもを亡くした親もまた人である。人と人が関わりあっていれば、そこに喜びや悲しみ、痛みが介在するのは当然で、それを表現することは決していけないことではないことを学んだ。
    答を出すことではなく、その時々の親の姿を受け止めていくことが、子どもを亡くした親ヘの看護につながるかと思う。
  • 緊急事態の場で母親は、子どもの命に集中して看護や医療はあまり見えていない。もし伝わらなかったとしても、その現場に手厚い看護が存在していたことは十分意味があったと私は考える。
    看護者が患児とその家族を思って援助を行ったのなら、目には見えないとしても、根底で患者家族を支えることに繋がっていくのではないかと思う。
  • 残された家族は大きな傷をもって日常生活に戻っていくが、いつもの生活が過ごせるとは限らず、心の傷が少しも癒えることなく、自責の念で押しつぶされるかもしれない。
    「なにかできることがあるならいつでも対応します。相談に乗ります。」と、家族だけで抱えてしまわないように、心の休まる場所を用意しておくことも看護だと思う。
  • 私の祖母は、40年以上前に急病で亡くした子どものことを思い出しては自責し泣いていた。
    きっと母親にとって、亡くした子どもとの思い出は亡くなったときのことで止まっているのだと思う。
    家族会に参加できる親もいればできない親もいる。
    親を置き去りにしないで、周りの人が支えていく援助(→社会の理解と体制)が大切だと思う。
  • 患者に沿い、患者家族に沿い、その中で流す涙は冷静さを欠いた稚拙なものではなく、患者に対しての最後の看護である。
    今後私は、現場に出て多くの人の死に立ち会う機会が出てくるだろう。
    そのときに自分に対してでなく、患者や患者家族に沿った涙を流すことができるような看護師に私はなりたいと思う。