七回忌法要で「命」考える

2004/06/01

 娘を亡くしてしばらくの頃、出席していた分かち合いの席で、七回忌の話をされているご遺族を見つめながら、自分にもそんなときが来るのだろうか… とありえないことのように想ったものでした。けれども私にも同じように歳月は流れました。

 お坊さんは読経のあと、こんな話をされました。(あいまいな記憶です)
鷲がうさぎを捕らえて食べようとしているので、それを見た王様が「私の片腕をやるから、うさぎを放してあげなさい」と鷲に言った。うさぎと王様の片腕を天秤にかけるが、釣り合わなかった。王様は、両腕を差し出すことにした。それでも天秤は釣り合わなかった。王様は、次々と自分の体を切り取って天秤に乗せるが、どうしても釣り合わない。とうとう王様の体ぜんぶが乗ったときに、天秤が釣り合った。命の重さという意味においては、生き物はみな等しいということ。

 このような講話を私たち夫婦は、うーんと聴きました。あとで息子(11歳)に
「お経はなんにも分からないけどお話しは良かったね」
と話しかけたら、息子は首をかしげました。私は、この子は話の意味が理解できないのかと落胆し、噛み砕いて話し始めたとき、
「そんなことは分かってるヨ。あの話は意味が通じないというか、へん」
と言います。

「あの鷲はえさがほしいだけで、べつに命がほしいわけじゃないから。そういう、命はすべて平等というような話をするときは、命がほしい鷲の話をしないと」。

 私はうーんとうなづきました。が、こんどは夫が首をかしげます。
「そんなこと言い出したら、どんな話も意味をもたなくなる」。
「聞いておかしいと思う話で意味を考えるより、意味の通じる話を考えるほうがええのとちがう?例えばぁ〜」と息子。

 どういう話なら意味があるのか?その結論よりも、”あるお話”を間に置いて、ああでもない、こうでもない、と親子で会話を重ねることに意味があるのだと思いました。

法事のあと

    思い出をたくさん分かち合った法要のあとのお食事の席