自由ってなんだろう?

2005/05/15

40歳をとおに過ぎた私が、大学院に行くようになり1ヶ月が過ぎました。
最初の宿題は、自由について書くことでした。

自由とは
いくつものことが同時に許されている状況をいうのだと思う。
例えば、<したいことができる>というのは、したいことを計画することが許可され、実施する環境が確保でき、自分自身が実行できる態勢にあるということで、これらの条件が同時に満たされるというのは、そういった状況が「許されている」というふうに思えてならない。
恵まれた境遇にある人ほどこうしたことを感じることも考えることもなく自由獲得のための条件は満たされる。

 私が自由を「許されたもの」と考えるようになったのは、国立病院の病棟で過ごした体験による。入院当初は、動ける体さえあれば自由は手にできると考えていた。けれども、自由というのはとても不平等に訪れるのだった。さまざまな拘束と身体的苦痛がある長期入院であったが、自分などは恵まれた領域に位置していることを知っていく。何人もの深刻ながん患者との出会いのなかで。

 Nさんは、幾重にも許されない人だった。がんは全身に広がり、もう回復の手立てはない。入院患者であって治療が許されないのだ。がんの種類によっては、有効性や安全性が証明されている薬であっても、まだ日本で承認されていないために使用できない患者も多くいる。これは規則が許さないのであり、時期が許さないということにもなる。
 
 Nさんには小さな女の子がいた。この子と暮らす将来が予定されていた。けれども時間が許されていない。せめてもう少し大きくなるまで頑張りたいと願うが、体力が許してくれない。治る見込みがないのであれば、家で過ごしたいと望んだが、これは家族が許さなかった。家族は、わずかな可能性にも期待をかけ、入院を継続して治療を受けるよう強いるのだった。
 にもかかわらず、「私の人生は幸せだった…」と言った彼女の姿と言葉が忘れられない。理解が及ばなかったというのが本音だ。

 自由に標準のかたちはない。基準は個々に異なり、一人の人物のなかでも形を変えていく。自由がなくても必ずしも不幸ではなく、自由であっても幸福とは限らない。
あのがん病棟から這いずり出ることができ、あらゆる拘束から開放された今も、自由とは、努力だけでは獲得しがたいものであるという感覚は変わらない。自由を努力することにより獲得できる人は、やはり、非常に恵まれた境遇にあると思う。