「私も」が与える、安心感と違和感(と頓珍漢)

2009/08/02

セルフヘルプグループの運営に関する講演会に行った。
特に発言するつもりはなかったのだけれど、
司会者に促され、少しだけ発言した。自己紹介もした。

終了したとき、ボランティアとして会場を手伝っていた女性から
声をかけられた。
開口一番、言われた言葉が、「私もね」だった。
ワタシに対し、「私も」と来れば、
この人も、子どもの遺族?と思ってしまう。

「私もね」に続く言葉の、9割がたは、
「私も、○○を亡くした経験がある」で、
○○の中身は、さまざまであり、愛犬の場合も、ある。

誰を失っても、かけがえのない存在を失うことは、
たとえようもなく、つらいこと。
そのあたりの理解が、社会で広がらなければ、
子どもの遺族へのいたわりだって、十分なものにはならない
と、私は考えている。
これを前提とし、いつも考えることがある。
なぜ、「私もね」は、使われやすいのだろう。

先日、別の遺族会の代表者と話し、
彼女が感じていたことが、的を射ているように思う。
人は、心的距離を縮める工夫として、同じ立場をとろうとし過ぎないか?
ということだ。
つまり、「私もね」から入る会話が、安心を与えるという、思い込みが、
逆に、違和感(人によっては傷つき)を与えていないだろうか?
という話だ。

日の浅い遺族は、よく、「子どもを失うということは、
ほかの何を失うこととも、まったく違う。
比較にならない苦しみだ」と、強調する。
必然的に、同じように子どもを失った遺族の存在から、安心を得る。
これも、そのまま認められてほしい。

ただ、まるで違ったことが起きていても、
体験者本人にとっての、耐え難い苦痛というのは、
子どもの死と、共通するところがある
ということも、認めていきたい。

ところが、「私にもつらい体験がある」と明らかにした上でなければ、
近寄り難い、といった、たしなみは、
体験に対する恐縮の表れでもあるのだけれど、
「私も」を、親睦の旗印にしてしまうと、
ちがうものも、同じであるかのように、認めていかなければならなくなる。

ちがうと感じたら、やはり、ちがうのだから、
ちがいは、ちがいであって、いいと思う。
響きあう関係は、体験そのものを揃えるところから始まらなくても
成り立つと、私は思う。