けりをつけられず、納得に至らなくても、道はあると思う。

2009/12/09

鷲田清一さん執筆「たしなみ」の、つづき。
2つめのテーマは、「納得」について、だと思う。
文章をそのまま引用する。

「わかる」ということにはたぶん二つのことが含まれている。
一つは、理屈でわかること、つまり理解。
いま一つは、理屈で割り切っても割り切れないままに残る想いに
それなりのけりをつけること、つまり納得。
ひとがよく、「理解できるけれど納得できない」と口にするのも
そういうわけである。(引用おわり)

ここまでのところで、やはり私は、うなずきながら様々なことを考えた。
「理解できるけれど、納得できない」ことと、
「理解はできないけれど、納得している」こと、
どちらも、日頃経験するけれど、前者は、苦しい。
難しい理屈を頭でわかること以上に、
割り切れないものを心に落としていくことのほうが、難しいからだ。

あゆみの病気に関する説明は、難しすぎて私の頭では理解できなかった。
いろんな本を読み、いろんな人に聞いても、理解できなかった。
病気の説明どころか、死の意味は、まったく理解できなかった。
それでも、心のざわめきが、だんだん収まって行ったのはなぜだろう、と考える。

鷲田氏の文章にある
「理屈で割り切っても割り切れないままに残る想いに、それなりのけりをつけること」
が「納得」であるならば、
私は、あゆみにまつわる想いに、けりをつけたわけではないので、
納得などできないまま、ずっと「妥協」だけして生きてきたのだろうか。

考えてみて、そんなことはないように思った。
「けり」をつけなくても、生きていく道を切り開くことは、できると思う。
私の場合
理屈で割り切っても割り切れないままに残る想いに、それなりの「折り合い」
をつけながら、暮らしてきたところは、大きいと思う。また、
納得のいかない感情を、そのまま呑み込み
むりやり胃で消化させたようとしたことも、ある。

ただ、それだけでなく、大半の感情は
ずっと持ちつづけても、重過ぎず、痛くなく、苦しくない、そういう質に、
自分なりに変化させたのだと思う。
そうして、持ち続けていられるカタチにした感情を、
私自身の体に擦り込んでいった、そんな気がする。

けりをつけて、片付けていくよりも
持ちつづけて、いずれ自分のものにする。
そういう道も、あると思う。
「ものにする」とは、そういうことではないだろうか。