とは言え、名前は忘れていいけど、顔は覚えててほしいかも

2009/12/26

25日は、クリスマスケーキが半額になるというのは、本当の話だった。
3階に住む同居人が、「思わず買った!」と、
きょうクリスマスケーキを持ってきてくれた。
昨日のイブは、私は朝から夜までに、3つも約束を入れて
ケーキが買えず、あきらめただけに、大喜びした。

昨日は、3つとも充実した内容のお出かけだったのだけれど、
1つめと3つめは、プライバシーに関わるので、2つめのことだけ。
訪ねた先は、紙芝居の熟練者、Yさんのお家だった。
過日のシュギョー(講習会)で、私が元気をなくしたりしたことを知り
個人的に手ほどきしてくださることになったのだ。

実演を拝見するまでに、2時間ほども導入編を聞かせていただいた。
紙芝居は、奥深い。
疑問に思っていたことの謎も解けた。疑問とは、
絵本と紙芝居では、ねらいや効果が異なることを講習会で知ったが、
では、絵本向きのストーリー、紙芝居向きのストーリーがあるのか?
しかし絵本にも紙芝居にもある作品が、よくある。

紙芝居は、絵本のページよりも少ない枚数の、絵だけを見る。
裏に書いてある文字も、絵本より少ない。
なので絵本よりも、かなり圧縮されているそうだ。
Yさんいわく、「そぎ落として、そぎ落として。」
ストーリーを維持して、文章縮めるのは、難易度が高い。

紙芝居は、背景を語る言葉も少なく、
会話が連なるように並んでいる箇所が多い。
一人で何人かの登場人物のせりふを語るわけだが、
「こわいろ」を使わないことが、大事なのだという。
こわいろを使わずに、演じ分けるのは、むずかしいと思うが、
「こわいろを使うと、演じ手だけ浮く」という理由が、興味深い。

私は、むかし、声楽を専攻していたことがある。
先生からよく言われた。「そんなに一所懸命歌ったら、聞く方は、しんどい」。
せっかく聞いていただくのだから、一所懸命に!となりがちだが
それは、とてもよくない。「自分が」の気持ちが出過ぎると、
聞いててしんどいだけでなく、作品の本質を壊してしまうからだ。
根本というのは、何事にも、通ずるんだー、と
深くうなづけた。そう、何事にも。
このあと、Yさんの思い出話に、とても感銘を受けた。

Yさんは、一人の、学校に行けなくなった不登校の少年の存在を知り
その子がやって来るところへ、紙芝居をもって通うようになった。
紙芝居の力を借りて、その子に何かできるといいな、という思いから。
その子は、紙芝居に関心を向け、とても楽しみにするようになった。
笑顔が見え、話ができるようになり、明るくなっていった。
そして、その子とYさんがお別れする時期を迎えた。
何年も過ぎてから
偶然入ったお店で、Yさんは、働いているその子を見かけた。
声をかけると、紙芝居のことをよく覚えていた。でも・・・
「私のことは、すっかり忘れてたんですけどー」と大笑い。

この話に、改めて、
紙芝居のもつちからや、魅力は、すごいんだな−、と思った。
同時に、笑いながら話してくれるYさんには、
ちょっと切ない思いがした。
ただ、これが本当に大事と、思った。

人は、たいてい親切で、
困っている人や、つらい思いをしている人がいると
何かしてあげたい、と心が突き動かされ、実際、尽くす。
でも、相手が楽になったときに、「自分が」役に立ったことの
証明のような「手応え」がほしい人が、案外多いように思う。
「ありがとう」といった感謝のかたち、かもしれないし、
本人からか、周囲の人からの、「あなたのおかげ」という評価、かもしれない。

遺族会のような組織は、
出会う相手の悲しみの、解消はあり得ないし、解消を目指さない。
だから、役に立つことの、証明も、手応えも、評価もないし、
役に立っているのか、いないのか、どうなのか、よくわからない。
いくらか役に立つとしたら、
ご本人が内にもつ「ちから」を、自ら引き伸ばしていく
そのきっかけのところに接触しているかもしれない。
といった、とても曖昧で、かすかなもの。
私は、そのあたりが、とてもいいことに思え
そういう認識を、大事にしたいと、思っている。

Yさんの言う「だから“私”じゃないんです。紙芝居のもつちからなんです」
という言葉を聞きながら、
自分が依って立つ、軸の部分と、響き合うのを感じた。