いい・いや では測れない人間の感情

2010/03/02

自分がされるといやなことは、人にもしない
という考えは、正しいと思う。
これ、幼稚園児でも理解でき、心がけてくれるが
自分がされて嬉しいことを、人にもする
という考えをもつ大人が、案外多くいて
遺族はつらい目にあうことが、多々ある
ということを、先日ここで書いた。

私は、最近、このことをあちこちの講演でしゃべり、
レジュメにも次のように書いている。
  
人はつい、悲しみをもつ人に「何をしてあげよう」ばかり考える
しかし、とりわけ遺族に関しては、ここでズレが生じる。なぜならば
自分ならしてほしいと思えることが、当事者のしてほしいこととは
限らないからである
「してほしくないこと」は、ほとんど誰にでも共通する割に
「してほしいこと」は、個人差が大きい
しかも、しない影響 < した影響 となる
ならば、「何をされたくないだろう?」を考えることが、先ではないだろうか

という提案に、今のところ反論は来ていない。
ところが!きょう
ダイキに、やられた。

「してほしくないこと」も共通するとは限らないよ、というのだ。
どういうことかと思い、尋ねた。

私: 例えば、陰で悪く言われるなんて、誰でもされたくないでしょう。
ダイキ:そうかなあ。直接言われるよりマシ、ってやつ、きっといるよ。

私: んー、じゃあ、痛い目にあうなんていうの、誰だっていやでしょう。
ダイキ: いや、ドエムのやつは、おる。

なんじゃそれ。
マジメに答えろと言ったら、マジメな顔をして答えた。

彼も、苦の種類は、ある程度限定されるのではないか、と考えている。
「四苦八苦というように」と。
えらい言葉知ってるねえ、と言うと
倫社の授業で習ったらしい。
(四苦八苦をぜんぶ暗記させられたのだそう。)
一方、快の種類を示す言葉は、どうも見あたらない。

ただ、私の考え方では、
プラスか、マイナスの、二元論に聞こえる、という。
人間の感情というのは、その間にある、プラスマイナスゼロという
はざまに置かれることが、しょっちゅうある、と言うのだ。

つまり、人から受ける行為に対しても
うれしい、つらい、どちらともいえない、の幅をもって観たうえで
「つらい」のはどういうときか、考える必要があるのではないか
という指摘だった。

うん、確かに。
今度から、表現を変えようと思った。
むしろ
「どちらともいえない」が、くせものなのかもしれない。
「どちらともいえない」についても、深めてみようと思った。