話したくないからか?聞きたくないからなのか?

2011/06/08

前回、母の知人が母に対し
あゆみの話題を執拗にさえぎり、話題を変えたと書いた。

あれはなんだったのか、改めて考えた。
亡くなった孫のことを話すことは、母にとって、きっときついだろうと
気を遣った行為なのか、あるいは、
幼くして亡くなった子の話を聞くと、自分までつらくなってしまうから
避けたくてとった行為だったのか、
どちらかなのだろうが、結局のところ、わからない。

前者だとすると、なぜそのように察するのだろう。
これには思い当たる節はある。

私が出会う子どものご遺族のなかにも、
亡くなった子のことを、話したい、知ってほしいと願う人がいる一方で
(とはいえ、条件つきである。安心して話せる相手であること。つまり
話したことを後悔させない相手であること。)
また別に、話すとつらくなるから、話さないご遺族も存在する。

当事者の感情は、何より優先されるべきであるので、
話したくない人に、話させるようなことは、してはならない。
だから会でも、つどいには無理に誘わず、予約制にもしていない。
出席されても、無言でいることに違和感がない環境を整えている。

なのだけれど、
世間によくある、話したくて話そうとしている遺族の口をさえぎる
あの「一方的」おもいやり行動を、広めていったのは
もしかしたら、ほかならぬ遺族本人たちだったのかもしれない。
そう思うと、複雑な気分になる。

ご遺族からよく聞く言葉に
「話してから、ごめんね、って言われてがっかりした」
「悪いこと聞いちゃったね、って言われて、悲しくなっちゃった」
という体験を知らされると、残念でならない。
けれども、そういう風潮をつくっていったのが
かつての遺族たちだったとすると・・・

これは、なんだか、へたに動けない気分。
世間一般の、思い込みに端を発した行動だとすれば
啓発のしようもあるのだけれど。