子どもは家を選べないから

2011/10/31

遺族会の運営者がシンポジストとして出演する「シンポジウム」があった。
出演者の1人の女性は、
ご主人をある事情で亡くされたことをきっかけとして
遺族会を運営している。
その人の講演は、亡き夫への愛に満ちていることや
亡き夫を語るとき、まるで少女のように可憐であることを
私は人づてに聞いていた。
あいにく、講演をじかに聞いたことはなく、
想像しながら、抱いている疑問があった。

その人は再婚しており、現在は2人目のご主人と幸せに暮す。
さらに現在のご主人は、彼女の活動を手伝っておられる。
妻が「少女のように」亡き夫を語る講演を間近で聞き、
何も支障ないのだろうか。実生活に。

シンポジウムの打ち合わせの席で、
私は思いきってお尋ねした。
「今のご主人が聞いていても、いなくても、同じように語れますか?」
帰って来たのは「同じ」だという答えだった。

私は、到底語れないと思った。
もし講演会場にダイキがいたとして、あゆみのことを。
こういう会をしている限り、家の中ではどうにもできない制約があるが
講演などにダイキを呼ぶ気になれないし、来られてはコマル。

遺族の家では、きょうだいが、「死んだ子には勝てない」
と考えたりするという。
ダイキもそう思っているような気がする。そうでありながら
来客があると、私に話しかけないようにしてくれたり
電話が鳴ると、テレビのボリュームを小さくして
メモ用紙と鉛筆をさっと渡してくれたりと
小さい頃から「協力的」だった。

先の質問に、追加のコメントをくれた。
「夫を亡くし、夫の死に傷つき、夫の死にまつわる活動をする
そういう私と結婚したのだと思う」
という言葉に、感動を覚えた。

けれども、ダイキら「きょうだい」の場合
遺族の家を好んで来たのではなく
生まれて、ここに、いるのだし、と
また改めて思った。