母が元気だったころー2

2013/12/25

兄が、母を連れて行った元勤務地の小学校で
もらってきた創立50周年記念DVDを見てみると
母の活躍ぶりが垣間見られた。

年代を見ると、私の誕生前後。
詳しいことはわからないが、
「難聴学級」という耳の不自由な児童を受け入れる特別なクラスを
おそらく西宮市で初めて母は担任していた。
私の幼いころの記憶にも、おぼろげに
特殊な機材のある、カーペット敷きの教室に入った覚えがある。

母は普通の教師で、それ以上の専門性はなかったはずだ。
なのにそんな大役、どのように果たしたのだろう・・
私が生まれて間もなく、6年生を担任し
修学旅行にも行っている。

話は飛ぶが、私は母乳で育ったと聞いている。
早朝飲ませてもらったあと、母は出勤する。
夜帰宅後に飲ませてもらい、夜中も飲ませてもらうが
昼間は、当然ミルクになる。

私の子育てでは、
母乳の合間にミルクを飲ませることは、できなかった。
母乳が足りないから足したかったのだけれど
嫌がって飲んでくれなかった。
味が違うからか、感触が違うからか
のけぞり、泣きわめいて、無理だった。
だから、もう出ないお乳を、とにかく吸わせるしかなく
つらくて涙したことが、何度もある。

では、乳児の頃の私は・・・
のけぞって、泣きわめいて、
でも哺乳瓶を押し付けられるだけで
仕方なく、ミルクで飢えをしのいだのだろうか。

母だって、溜まったお乳を、昼間どうしていたのだろう。
痛くてたまらなかっただろう。
私にも我慢はあっただろうし
母にも忍耐があっただろうし。

そんなふうに思えるのは
育児を越えた今だからで
思春期時代の私は、ずっと
このことと向き合っていたのかもしれない。

私は、なぜ寂しいのかわからない。
どこからくる寂しさなのか、わからない。

あゆみは、足りないなりに母乳で育て切れて
よかったと思える。
母乳が終わると同時に、あの子は逝ってしまったけれど。