わが子にとっての誰であるか

2019/02/04

間もなく平成の時代が幕を下ろそうとしているこの時期
過去の事件を振り返る記事を、目にするようになった。

2004年に、小学6年生の女の子が、教室内で
カッターナイフで首を切られて殺害された。
加害者は、同級生の女児。

その後、お父さんが悲しみに暮れたことや
中学生だった兄まで自分を責めていたことなど
家族の生活が一変したことは、想像に難くない。

驚いたのは
加害者から、これまで謝罪の言葉がないままで
家族は待ち続けており
ところが、どこで何をしているかもわからない
ということだった。

この記事は、大事だと思った。
けれど、文末の一文は、いらないんじゃないか?
と思った。

  当時、妻のおなかにいた私(記者)の長男は今年中学2年生。

だから何?
その補足情報、いる?

  子どもを被害者にも加害者にもしないために、私たちは何ができるのか。

を言いたい気持ちは、よくわかる。
とても大事なこと。

でも、子どもがいる・いない、同年代かどうか、にかかわらず
社会全体が熟考すべきことじゃね?
と思ってしまうのが、私の悪いクセ。

いっつも繋がるのが
「ご両親の気持ちは、よくわかります。
私にも同じ年の子どもがいますから」
と言ってくれた医師の言葉
嬉しいと思えなかった、あの日の自分。

  先生、わからないと思います。
  先生のお嬢さんは、健康で、ずっと生きていけますから。
  わからなくてもいいから、しっかり治療してください。
  私たちが望むのは、それです。

「わからなくてもいいから」なんて、
ほんとは思ってなかったとおもう。
わかってほしいし、
わかったうえで関わってほしかったし。

同い年の子が「いますので」「いますから」
というの、どうも、あかん。いらん。

というか
よその子のお父さんとして
よその子のお母さんとして
よりも、
「あゆみにとっての」絶対的な味方として
を、あまりに強く期待したから、かもしれない。