会報 No.50

2004/08/05

これは喪失会員向けのの会報です。

こころの扉(会報50号)

平成16年8月

発行:【小さないのち】

第15回小さないのち公開講座
喪失の癒しコンサートから

「手紙 天国の賢信へ」

喪失会員 中島 美恵子

賢信は4人目にして初めての男の子でした。お姉ちゃん達に「王子様」と呼ばれ、とても可愛がられ、我が家のアイドルでした。

賢信が何をしようと誰も怒らない。目の中に入れても痛くないというくらいのお姉ちゃん達の可愛がりように、「我がままになりそうやなあ〜」と思いつつ、本当に可愛がっていました。

 

あの日、賢信は転がるように悪くなっていきました。昼ご飯は沢山食べました。3時半、私が出かけるときにはスイカを食べていました。賢信はパパとお留守番です。

その3時間後に帰ってくると、大量の下痢をしていました。下痢は止まりません。熱を計ると42度になっていました。慌てて病院へ駆け込みました。

 

病院へ着くと嘔吐が始まりました。血液検査の結果はそう悪くはなかったのですが、点滴をしても泣かないし脱水症状もあるため、「念のため入院しましょう」と言われました。

手続きが済んで、日付が変わった夜中の3時、痙攣が始まりました。それから数時間後には自発呼吸もほとんどなく、瞳孔も開いていました。私は叫び続けていました。病室の外でどうすることも出来ず「賢信頑張れ」と叫び続けていました。

 

次に会えたときには賢信の体には沢山の点滴と装置がつけられていて、何処を触っても何の反応もなく、生きているかどうかわかるものは機械の数字だけでした。

数時間前にはハイハイしていたのに。あんなにご飯を食べていたのに何が起こったのか・・・私達夫婦は24時間賢信と一緒にいることが出来ましたので、とにかく必死に何か刺激になればと思い、手と足を揉み続けました。

 

主治医の先生はいつも血液検査の紙を持ってきました。一つ一つ丁寧に説明しながら、毎日話し合いをしました。手が空いては病室に来てくれて、当直の日は「手当てと言って手を当てるだけでよくなるんですよ」と賢信の頭に手を当ててくれました。

看護師さんの交代の時間になると、みんなが賢信の所にやってきて「賢ちゃんおはよう〜」と声をかけてくれます。重病人が居るとは思えないほど明るい病室で、よく私も笑い話をしていました。

 

途中からすごく体が浮腫んできたので、血圧を測ると腕に跡が残ります。「跡が残ったねえ ごめんねえ」と言いながら、跡が消えるまでさすってくれました。意識のある子と同じように話しかけたりしてくれるのが嬉しかった。

賢信を抱っこする提案もしてくれました。でも、呼吸器をつけている子を抱っこするのは大変なことです。抱っこしたはずみで呼吸器がずれる事もあります。

怖くて私は抱っこできませんでした。すると賢信の横で添い寝をすることを提案してくれました。みんなが本当に一生懸命になってくれました。

 

私達親は、決して治療の部外者という感じではありませんでした。同じ立場で一緒に考えてくれました。納得がいくまで説明してくれました。

説明を受け、冷静になることで、賢信を可哀相と思うのはやめました。賢信は生きるために闘っている 生きるために治療を受けている それなのにその治療が可哀相と思うなんて賢信に失礼だ と思うようにしました。

病院での出来事は、その後の私の気持ちに大きな影響をうけました。ここまでしても助からなかったんだから、大きな流れがあったのかもしれない。私は早い段階でそう思うことが出来たからです。病院に対して嫌な気持は、私にはほとんどありませんでしたから。

 

しかし1才になったばかりの賢信の体は、24日目にとうとう限界が来てしまいました。

最終宣告を受けた後、初めて賢信を抱っこしました。けれども体が非常に浮腫んでいたので、とても重く、頭から肩に掛けて私の腕の形に変形してしました。へこんだまま戻らない。

その時に、「ああ、賢信はこんなにひどかったんだ。この子はこんな状態で生きている方が不思議だったんだ。よく今まで生きていた。賢信頑張ったなあ。もういいよ」そう思いました。私が覚悟出来るまでずーっと待っててくれたんだねえ。

それからカウントダウンするように脈が落ちていきました。

 

覚悟は出来たつもりだった 蘇生は一度と決めていたつもりだったのに、脈が10を切ったとき、どうしていいのかわからなかった。蘇生の処置を頼むことも断ることも出来ずに、ただ「どうしたらいいんや」そうつぶやいていました。 なすすべが何もなかった。

病院が子供達も一緒に泊まれるようにしてくれました。だから賢信とは家族みんなでお別れが出来ました。機械の意味も知らないのに、子供達は感じたのか、最後がわかっていました。

東向きの部屋に朝日が射し込むとき、静かに天国へ行ってしまいました。

 

賢信が亡くなって、なんで なんで何での答えを毎日探し続けました。本やネットで調べまくりました。病気のことを知れば知るほど「なんで」が出てきました。

賢信のお茶碗だけみんなと違ったから?

賢信の勉強机だけ無かったから?

私が何か悪いことをしたから?

あの日、私がもっと抱っこしていれば 私がもっとこうしていれば・・・

だけど納得のいく答えなんて出なかった。

でるはずがない。それでも答えを探していました。だけれども「なんで」の答えを探すことが、その時の私には必要でした。

 

賢信は私の未来でした。私の未来には、必ず、大きくなった賢信がいました。私が死ぬときにも賢信は生きているはずでした。大きくなったら、母親と歩くのを嫌がる賢信を無理矢理買い物に連れていこう。そんなことまで考えていました。

賢信が居なくなったとき、私の未来も終わってしまったと思いました。そして、私の時間はそのまま止まってしまったんです。大きくなるよその子を見て、置いてきぼりを食らったような気がしました。

楽しそうにしている人を見て、私はここにいてはいけないとも思いました。ご飯を食べたり笑ったりすることが、母親として失格のような気がしました。賢信は一人でいるのに、私だけが幸せになるなんて、自分が許せませんでした。

 

まだ3人の子がいるので後を追うわけにもいかず、悲しむことも許されなかった。

赤ちゃんを連れている人が憎らしかった。妊婦さんが幸せに見えて腹が立った。昔は家族でよく見ていた大家族を追ったテレビ。こんなに沢山子供が居てみんな元気に育っているのに、何故賢信が死ななきゃ行けないのか腹が立ちました。

賢信の為だけに、賢信の事だけを考えて暮らしたかったのに、許されないことだった。

 

賢信が居なくなった日常だけがただ積み重なっていきました。それまでは、自殺する勇気があるなら生きればいいのに そう思っていました。けれども、死ぬのに勇気がいるのではなく、存在できないと実感するから生きる勇気がなくなるからなんだと思いました。

 

夏の終わりに扇風機を片づけたとき、これを出したときには賢信が居て、扇風機に向かって「あーあー」叫んでいたのに、片づけるときにいないなんて、信じられなかった。スーパーへ行くと、前に来たときは賢信が居たのに、今はいないなんて信じられなかった。

賢信が居ない日が積み重なるのを、ただこなしていくしかなかった。本当に賢信は居たんだろうか? なにもかもがわからなくなっていました。親としての自信もすっかりなくなっていました。

 

4人産んで子育てには少し自信があったつもりだった。今まで私は何をしていたんだろう。母親としてもやっていけなくなりました。

その一方で、どこかで「早く立ち直らないと」「この状況を打破しないと」とあせっている自分もいました。賢信の事だけを思って過ごしたい自分と、この状況から抜け出さないといけないと思っている自分と、相反する考えがよりいっそう苦しくなりました。

 

賢信の事を思って心と体がボロボロになると嬉しくなり、立ち直ることは賢信を忘れることだと、賢信に対する思いが薄くなることだと思っていました。

けれども、どこかで「これではいけない」と思っていました。その「これではいけない」と思う自分が、また許せませんでした。そして、悲しむと言うことがどういうことなのかもわからず、自分がどう振る舞って良いのかもわからず、自分が何をしたいのかさえわからなくなりました。

今になって考えれば あの時は賢信の事を思い出して辛いと言うよりも、失ったつらさと苦しさを何度も思い返していたように思います。

 

私は、賢信が「1才で死ぬなんてなんて不幸なんだ」「苦しかったやろう 痛かったやろう」「守れなかった私のことを恨んでいるだろう」と思っていました。

ある時、子供が私に「なんで? 賢信はママのこと大好きやったやん。いつも笑ってたで」と言いました。

その時にハッとしました。私は、賢信が可哀相な子だ 私を恨んでいる 何て人生なんだ そんなことばかり考えて、 賢信に幸せを沢山貰っていたことも、賢信といた楽しい日々もすべて忘れていました。

不幸なこともあった。だけれども幸せなこと沢山あったのに、私が賢信を不幸なだけの子であるかのようにしてしまっていたのです。恨むような子じゃないのに・・・

賢信が幸せだったと証明できるのは家族なのに、私が不幸だけだった子にしてしまっていました。

 

新聞紙はいつも私が読む前にびりびりにしてくれた。

自転車の前椅子に乗ると、自分が運転しているかのように自転車のハンドルを持ち、向かい合わせに抱っこすると、こっちを向けといわんばかりに、いつも私の顔をペチペチ叩いていました。

物を持つと投げては笑い、机の上の物はすべて下に落とし、カメラをむけるとカメラに突進してくるので、いつもアップの写真ばかり。ペタッペタッとはいはいも勇ましく、私と目があうといつも笑顔だった。いたずらっ子だけど本当に素晴らしい子だった。

賢信は可哀相なだけの子じゃない。産まれてきてくれて良かった。会えて良かった。

 

悲しい気持が薄れることは、賢信を忘れることと思ってました。けれど、前よりもっと幸せをくれていた賢信を思い出すことができる。今、その顔は呼吸器をつけた顔ではなくなりました。

最近は病院のことを思い出したり、よその子とだぶらせて泣くよりも、元気だった頃をよく思い出して泣いてます。苦しさがなくなることは、忘れることと思っていたんですけど、私をまっすっぐ見ていた目をやっと思い出すことが出来ました。

 

先週、長女と少し話をしました。賢信が亡くなって、私が死にたいほど辛かったことを告げました。

すると小学校2年生の長女は静かに言いました。「うちもね、賢信の所へ行きたかった。だけどね、賢信のために賢信の分まで生きなきゃと思った。自分が大事だと考えた」そう言いました。「自分が大事と思ったんよ」。2回繰り返しました。

短い言葉の中に、どれ程の思いを長女がしていたのか伝わってきました。今も時々長女は泣いていますが、私よりもずっと賢信に起きたことを受け止めているのかもしれません。

 

賢信、もうすぐ一年やなあ。

あんたが倒れた7月26日が一番私は怖いわ。

あの日のことは体が覚えている。

あの日あの時にいるように感じる。

時々な、わからんくなる。

本当に賢信は居たのかなあって。

いたことが嘘なんじゃないかなって。

無性に叫びたくなる。 死って何かなあ?

いのちって何かなあ?

何度考えてもね、わからない。

近くに居るとも思えんし、何故あなたが私を選んで産まれてきたかもわからん。

生きるが存在なら、いのちは存在感なんだろうか?

必死で存在感をおっているよ。

 

賢信。30年間は賢信が家を守ってくれる。それから生まれ変わるとお坊さんに言われたよ。だけどね、私は1才で30年も家を守るなんて重荷を背負って欲しくないと思う。賢信がまた幸せになれるところに産まれかわってくれたらそれでいい。そう思う。

姉ちゃんが言ったよ。自分を大事にって。だから賢信も、私達のためでなく自分のために次に進んでね。もっと賢信の人生と関わり合っていたかったけれど、賢信に返すね。かなり早すぎる親離れやなあ。

賢信が存在して私の子供であったことは、絶対に忘れられない事実です。私に出来ることは賢信の次の幸せを願うこと。そして、私自身のためには賢信の親であり続けること。「幸せになってね」今はそう思っています。

 

参加された会員の言葉から

子どもが亡くなってから、ずっと、自分も後を追って死ぬことばかり考えてきたけれど、中村さんの話を聞いて、死とは、自分から選ぶものではなく、避けようがないものなんだと思えた。きょう初めて、ほんとうにそう思えた。

 

子どもを亡くした悲しみは、他人に理解できるものではない。いくら涙を流しながら聴いてくれたとしても、真髄のところまでその人に分かるはずがない。私はそれに傷ついてきたのだけれど、きょう中村さんの話でがん治療の詳しいところまでが語られたとき、はっ!と思った。

いま自分は涙を流しながら聴いているけれど、中村さんの本当の大変さには理解が及ばない。いくら分かろうとしても、その人の身になれないということは、これなんだ・・・。

 

母は子供のためには本当に強くなれることを知った。当たり前のことができることに大きな喜びを感じられるという素直な気持ちと、周りの方への感謝の気持ちに感動した。

子供を亡くしたお母さんのお話は、大体自分の気持ちと近いから、そうだよねぇ うんうんわかるって聞けるが、中村さんのお話は私には少し重かったかもしれない。

もしも私が子供もいるのにあと1ヶ月の命と言われたら、どうなるか想像もつかない。すごい人だと思った。

ゲスト出演してくださった中村美穂さんは・・・

坂下 裕子

入院中に一緒にがんばった私の病友です。

この出演から18日後の7月8日、私たちの子どもがいる国へ旅立たれました。 数時間前まで自分でスプーンを握り、食べようと生きようと力のかぎりを尽くされました。最期のそのときまで、幼くして遺されるお子さんを気遣われ。

『美穂さん ありがとう 出会えてよかった
つらいけど 私 がんばるね』

「喪失の癒しコンサート」の模様を紹介しています。

喪失の癒しコンサート

1枚目 喪失会員の講演 「手紙 天国の賢信へ」
2枚目 喪失会員の歌唱 「風の中のあなた」
3枚目 ゲストの講演 「末期がんの母から子どもたちへ」
4枚目 代表あいさつ