会報 No.72
2011/08/042007年12月15日、第13回日本死生学学会から特別講演の依頼を受け早稲田大学国際会議場でお話ししました。前半を抜粋してお届けします。
たくさん割愛しているため、分かりづらいと思いますが、お許しください。
坂下 裕子
タイトルに、「重さ」という語をリクエストいただきました。そう、子どもの遺族はよく抱っこの思い出を言います。
いなくなっても顔を忘れるということはありません。この時代、ビデオもあり動く姿を見ることもできます。声も聞けます。
でも重さだけは感じることができません。抱っこの感覚が薄れていくのが怖いと、皆、こころを震わせます。
そして、重さというのは重要性であり尊さです。生きていても、亡くなっていても、親にとって変わらない重さ。
亡くなった子の話は文字通り「重い」話になりますが、この学会の皆様は加減なく語らせていただいて大丈夫。という期待をもって本日は参りました。
―中略―
現代社会は、人間の発達を標準値に照らし合わせて測り、「ふつう」であることに安心する社会です。必然的に子どもを亡くした親はとても暮らしにくくなります。昔の人はどんな感覚だったのだろう、と考えたりしました。
子どもを亡くすことは、昭和20年代までは珍しいことではなかったようです。きっと何人子どもがいても、何人産んでも、同じように悲しかっただろうし、なぜこの子が!という私たちと同じ思いを抱いたでしょう。
でも、『なぜ私の子だけが?』という嘆きはなかったんじゃないかと考えたりしました。そんなとき、とても珍しい本を手に入れました。
驚いたことに、遺族の手記の中に世界的哲学者西田幾多郎の手記を見つけました。
西田は生前に5人子どもを失っています。中でも次女幽子の突然死を深く悲しみました。西田が幽子を亡くしたのは、明治40年(1907年)です。その当時の出生千人に対する乳児の死亡率は152で、平成17年(2005年)では3です。100年で50分の1に減りました。
西田の手記には悲嘆の底から湧き上がるような言葉が綴られています。
哲学者である以前に子煩悩な一人の父親であることがよく表れており、何人子どもがいても、周りで何人亡くなっていても、一人の子どもが親にとっていかに大事で、その死は辛く耐え難いものであるかを如実に示しています。
―中略―
時代をさらにさかのぼり江戸時代には、人別改(にんべつあらため)という人口調査で七歳までの子どもは計算に入れられなかったといいます。
そうしたことから、「七歳までは神の子」という言い伝えが生まれました。七歳前後の幼児が死んだとしても、それは神様の御意志だから、あまり嘆き悲しんではいけないという教えです。こうした風潮は、現在も子どもを亡くした親の呼称が存在しないこととも関連していると思われます。
ただ当時は経験する人が多いぶん当事者間の交流だけは得られたはずです。現在の子どもの遺族が置かれている状況と考え方については、当会のアンケート結果にも現れました。
質問は、
①亡くなった子どもの思い出や記憶が薄れることへの不安を感じることがありますか。
②亡くなった子どもの「生きた証」のようなものを残したい思いがありますか?
③亡くなった子どものことを周囲の「理解ある」人に語りたい思いがありますか。
④亡くなった子どものとらえかたや扱いで周囲との違いを感じることがありますか?
⑤亡くなった子どものことを家族以外にも覚えておいてほしい思いがありますか?
びっくりしたのは、アンケートの記述と、西田が手記で吐露している言葉とがあまりに似通っていることでした。
―中略―
次に、子どもの特異性、子どもと親の特異的な関係性について考えたいと思います。
関係性を人称代名詞で表すと左表のようになります。問題になるのは二人称の死です。愛する人の死はみな耐え難い悲哀をもたらします。
ただ、“我が子”を喪った親が示す「2人称の死」に収まらない一種独特な悲哀、我が子の死に伴う特異的な要素とは何なのか。おそらくこの疑問を解く手がかりは、乳幼児期の母子の間で浮き彫りになるのではないかと考えました。
子どもの年齢を区切ったり、母子の関係だけを見ることは実際は意味を成さないのですが、「わが子の死」の特異性を明らかにするために、あえて対象を限定したうえで個別にお話を伺うことにしました。
お話を伺ったのは、3歳までの未就園児=まだ幼稚園に通っていなかったお子さんを亡くされたお母さんです。長い語りの中でみられた乳幼児だけに見られる特徴と、その死を象徴する表現を8つ左表にまとめました。
乳幼児期のお子さんを亡くされたお母さんの表現から感じられるのは、母親から見て幼い我が子は、「独立」した2人称ではないということと、別の「個」と思えぬほど自身に密着した対象を失っているということです。
母親本人を1人称とすると、幼い子どもは2人称という存在ではなく、1.5人称とすることが好ましいと言えます。1人称の死は存在しないに等しいので、人間が経験する死としてもっとも過酷なものは、1人称に非常に接近したところで起こるこの1.5人称の死だと言えるでしょう。
幼い子どもと母親とは1.5人称の関係にあるということや、1.5人称の死というものがあることが認められ、その概念が行き渡り、こうした理解のまなざしが、死の淵から這い上がるようにして命をつないでいく親に向けられたとき、我が子の死という壮絶なまでの悲哀も僅かずつ癒しの途をたどって行くのでないかと思われます。
―中略―
子どもを亡くすという共通体験を通して、平成に生きる親たちと、明治の時代を生きた西田の共通点は多く見られましたが、両者の違いは何だったのか、考えました。現代の遺族に共通しているのは、『なぜ私の子だけが?』と問い続けざるをえないことだと思います。
さらに、『どうして私の子は死んだのに私は生きていくの?』という人生最大の問いに迫られ、ご遺族の多くは、果てしなく考えをめぐらせるようになります。
いくら求めても答えは外側から入ってくることはありません。答え探しの道のりで、独自の手法により活路を開いていきます。多くは普遍的な解釈を含み、真理を思わせるような内容です。
たとえば、
『苦しみをもった生活を経験していない頃、その立場の人のことを考えるのは難しかった。
意識さえないというか、知らないと質問ができないのと同じで。子どもが元気でいるときは、人生のなかの幸せが何かということがよく分かってなかった。失ってしまうことで、それまでそれほど注目もしなかったことがどれほど大事なものかが分かった』
生命に対し、人間のもつ力が微々たるものであることや、人間がもつ力に絶対と言えることはないと思えた話がよく語られます。
こうした有限性の自覚は、自身の生命観にも影響を与えていき、「なぜ」の問いはいつしか、「どう生きていこう」とかたちを変えています。おそらくこの「いかに生きるべきか」の問いは、生涯を通して自らに問い続けるものです。
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前述のとおり、このときの話は、子ども死の全体像にはおよばず母親と乳幼児の関係性にとどめたものですが、子どもの死がほかの誰の死とも異なると思える点や、昔と今の遺族に感じられる共通点および相違点について述べました。
話しの後半は、苦しい状況にある当事者との関わりのありかたについて提言したのですが、いずれまた会報でもお届けできればと思います。