京都保健衛生専門学校で
2004/04/302004年4月20日
「いのちの医療」
2限つづけて授業をさせていただけたことがありがたかったです。
のちにすばらしいレポートを書いてくれました。
許可を得て、一部紹介します。
- 私は以前救急に勤務していた。
〜中略〜
思い出しながら、医療的なケアはできていたが、こころのケアはできていたのだろうか、そのとき家族にどう接していたかを考えた。
私が家族にかけた言葉はきっと、「いまから死後処置をします。処置が終われば自宅に帰られますか?それとも葬儀屋に引き取ってもらいますか?」など、事務的なことばかりだったように思う。
そのとき私は死に慣れてしまい、業務をこなすだけだった。
〜中略〜
看護は目先の結果だけ出すのでなく、先のことまで考えることが必要だということがわかった。 - 患者さんが亡くなられたとき、泣いてはいけないと思っていたが、何もできなくなってしまってはいけないが、泣いてもいいんだ、自分の気持ちを自然に表してもいいんだと思い、安心した。
- 今後、小児看護に関わることができたとき、自分になにができるか考えたいと思った。どんな最悪な状況であっても、最後まであきらめず、患児、家族、スタッフが、手段は違っても共に力を合わせ、精一杯生きていけるように関わっていきたいと思った。
- ケアにマニュアルはなく、一人ひとり異なる体験のなかにある家族に、できるだけ心を寄せながら、その時々の「いま」を大切にするケアをしていくことが重要であることを知った。
- 子どもを亡くすということはとてもつらいことであるが、亡くなった子どもの分まで自分が幸せになり、その人自身が自分で判断し、自分で生活ができるようなケアのできる看護師になれればと思う。
- 心のサポートやケアをするということを、簡単に考えてはいけないと思った。その能力は、経験を積んで培われていくものかもしれないが、患者や家族にとっては、ベテラン看護師も新人看護師も同じである。
看護師としての経験がまだ浅い自分でも、患者や家族にとって最高の看護師となれるよう、患者家族が望むことを十分に理解し、患者家族と共に見たり感じたりしながら、感情を共有していきたいと思う。 - 慣れほど怖いものはない。いま自分がこうしているということがどういうことなのか、相手がこうしているということはどういうことなのか、立ち止まって考えることのできる人になりたい。
- たとえば明日、誰かが亡くなるかもしれない。考えたくないが、ありえることだ。
〜中略〜
ひとつの行動に責任をもち、きちんとした態度で対応していきたい。 - 患者さんの言いたいことを汲み取り、一緒に考え解決できるようになりたいと思った。
〜中略〜
患者さんの話や心の声を聴けるようになりたいと思った。 - 泣かないことは、たぶん悲しくないからじゃなくて、
〜中略〜
亡くなられたかたの顔はいまもしっかりと覚えている。
その人たちの「いのち」はいまも生きつづけているし、思い出すたびに新たな発見がある。
きょうの講義を受けて、思い出が浮かび、涙が出そうになった。 - 看護は、身体面だけでなく人の心に深く関わる職業だと改めて感じた。
家族がつらく悲しんでおられるとき、どう関わっていいかわからないからと逃げず、自分が同じように悲しみを感じたなら、それを共有し、心をこめてサポートすることが大切と学んだ。 - 看護師として、どこまで家族の間に入っていって、どこまで関わっていいのか、難しいところだと思う。いくらいま頭で理解しようと思っても、実際その場に立ったとき、きっと戸惑うと思う。
話にあったように、私たち医療者は、患者の家族と一緒になって悲しんでばかりいてはダメである。専門職としてなにができるのか、考えていかなければならないと思う。 - カルテ開示するには、看護師の自覚をもっていなければならないし、技術だけでなく、知識も活用しなければいけない。だけど私は、看護師にとって一番大切なのは「心」だと思う。
やっぱりいくらテキパキと処置してくれても、業務のように流されたり、家族の気持ちや本人の気持ちをわかる心がなければ、信頼関係をもってくれないし、声かけもできないと思う。
優しい言葉だけでなく、その人にとってきつく言うこともあるので、人の気持ちをわかり、信頼関係を築ける看護師になりたいと思った。 - 「いのち」はとても広い意味である。だから講義で知ることができた意味以外にも、自分なりの「いのち」を見つけていきたい。
そうすることで看護の幅も広がるし、自分自身にとって生きていくと思う。 - 患者さん一人ひとりに、守るべき人や、守られる人がいることを考えながら、患者さんの「いのち」と関わっていきたいと思う。
- 家族にとっては、看護師の笑顔でいやな気持ちになったり、思いやりが逆に不愉快な気持ちにさせることがある。
そういうつもりなくても、家族が抱く気持ちはそれぞれである。いまなにをしたらよいか、何が必要かを、常に考えなければならない。 - 看護師の対応は、マニュアルとして行ってはいけない。心がなければ思いは伝わらない。その人その人に会った看護を適切に行える看護師になりたい。
〜中略〜
子どもを失った家族にだけでなく、これから私が関わっていく人たちの気持ちを考慮して援助していきたい。 - 家族が助けられた言葉や行為と、傷ついたそれは、紙一重のような気がした。その人のことを考えた言葉で傷つけてしまうこともあるのだと実感した。
支えるということは本当に難しいものだと思う。その人の心をよく見て、訴えをよく聴き、その人がいま望んでいる支え方をすることがとても必要だとあらためてわかった。 - 気持ちを丸ごとわかるということは、その立場でなければ完全ではないと思う。だから私は想像の優しさではなく、精一杯の努力と誠意をもち、私ができることをしていきたい。
〜中略〜
看護の仕事はとても大変な仕事だと感じたが、とてもやりがいのある仕事だとも思った。 - 「命」は死んでしまったらそれで終わる、生か死かというイメージがある。「いのち」は心や尊厳というイメージだ。
〜中略〜
人間の尊厳というのは、どこにあるというものではなく、その人固有のものであって、誰にも決められないものであると思う。だから「いのち」が生き続けるかぎり消されることはない。
人は、生まれて、生きて、死ぬ、これだけのことであるが、これに心が入ると、重みが違ってくる。目に見える「命」だけでなく、「いのち」にも目を向け、それに対しケアし、支えていくことが大切なのである。 - 命を守ることを最善に看護し、命と共にいのちを守ることにも最善を尽くすことが必要だと学んだ。
〜中略〜
「いのち」とはどんなものか、教えられるものではないと言われたが、確かにそうだと思った。
教わることは、言葉や文面からだけのものであり、実際の理解をするのは、最終的には自分自身だ。 - 小児の病気は、児だけでなく、母親が唯一の情報源であるので、早期発見、治療を行うためにも、母親の精神的ケアが必要である。
- 死とは寂しさもあるが、大切なことを教えてくれる。
〜中略〜
当たり前と思っていることは、すごく大切だとおもった。たとえば、一人ひとり名前があって当たり前だと思っている。しかし親にしてみれば、何らかの思いをこめて児に名づけたのだと思う。
だから接するときに名前を呼んだり、昔はどんなことして遊んだのかなど、家族が大切に思っていることは大切にしたい。医療現場で働くものは、知識だけでなく、人間性がとても大事だと思う。 - 医療従事者は、自分の感情のまま接することは許されないという根拠のない思いから、自分の感情を抑えて接することしかできなかった。もう少し違う方法はなかっただろうかと悩む。
自分の感情を殺さず、一緒に死を悲しむことをしてもよかったのだと知り、あの頃変な思い込みから、それを出し切れなかった自分が悔しく思った。 - 人は、他者と関わり、支えられて生きているのだと改めて感じることができた。出会いもあれば、悲しい別れもあり、その積み重ねで、人は生き続け、存在する意味を見出すのではないかと強く思えた。
- 人それぞれ、話し掛けてほしい親もいれば、そっとしておいてほしい親もいる。こういうときに、適切な対応をするためにも、入院直後からコミュニケーションをとっていき、情報収集をしていないといけないと思った。
- 看護師ができることは、子どもが生まれてきて、がんばって生きたいのちを認めることだと思う。
ほかに苦しい思いをしている子どもがいるとか、このまま生き続けるより良かったなどと説明するのは、何の励ましにもならない。
その家族の抱えている思いを看護者は考えなければならない。それは、仕事であるというだけでなく、一人の人間としてすべきだと思う。 - 子どもとあまり接することができなかったお母さんや家族には、亡くなる前でも一緒にいる時間を少しでも長くしてあげたいと思った。家族が大切に思っていることを、私も大切にしてあげたいと思った。
- いくつの児を失っても悲しみに違いはないと思うし、他人が気持ちをはかってはいけないと思う。
〜中略〜
私はとっさに手を握ってしまった。そのお母さんが、いつか元気に笑って赤ちゃんを抱っこできる日がくることを心の底から願った。 - 小児科の不採算性はとても大きな問題であり、すぐに解決できる問題ではないと思う。しかしたくさんの人に伝えて考えていくことで、少しずつでも動き出すのではないかと思う。
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