こうべ市民福祉大学
2009/04/16いのちの授業ではないのですが、7回シリーズ「いのちの重み 〜生きるとは〜」の1回を担当させていただきました。
受講してくださった方々に「いのち」から感じることをお聞きしたところ、さまざまなコメントをいただけました。
「いのちとは」
- 命は重たく感じるけれど、いのちはなんとなくやわらかい
- 命は医学的にみたもので、途切れてなくなるもの 個人的なもの 「いのち」は丸みをおびた文字からも感じる温かさ。人から人へ語り継がれるもの。
- 人だけでなく、物やそれを構成している細かい部分までいきとどいているもの
- おもみ
- 息子を思い出す言葉
- 不思議な魅力を持つもの
- 輝いているもの
- やさしさ
- かがやき
- 幸せ 幸福なもの
- 永遠に光輝いて限りなく続くもの
- 生老病死を越えたもの
- 心の中にあるたましい
- 地球上に生じた自己再生可能なもの
- 肉体としては滅んでも、その人のことを思い続ける人がいる限りあるもの
- 地球上の全いのちの一部
- 生まれ 息ること
- 生きる人のいのち 死んだ人のいのち
- 支え合うもの
- 終わりのないもの
- 一人ひとりちがう創られたもの
- 大切な大切なもの
- かけがえのないもの
- やさしさ
そして、次のコメントをくれた方の感性に私は心がふるえ、慰められました。
- 命は限りあるもので本人の中にしか存在できない、死んだらなくなってしまうものだけど、「いのち」は本人の命がなくなっても他の人の中でずっと存在するもの。いのちはずっと誰かの中にあるもの だと思う。
それから終演後に、、、
「子どもでも」という言葉に違和感をおぼえました
と言いに来てくださった方がおられました。
え? あっ! と思いました。
この日私は、自分に大切なことを教えてくれているのは子ども達(自分の子、亡くなった子、闘病中の子、授業で行く先々の子)である話をし、子ども達がものを感じる豊かさや、「いま」を生きる力強さや、その姿の神々しさについてお話をしたのですが、表現は『子どもたちでも』となっていたのでした。
ご指摘くださった方に深くお礼申し上げました。
ほんとうに、「でも」ではありません。
大人も、子どもも、「いのち」の視点では等しい高さだと思います。
そう思っていても、言葉の使い方をうっかり間違えたら残念なことが生じるということを、「その場で」気づかせてくれたかたの親切と勇気に感謝しました。