尼崎市立園田南小学校

2009/04/16

2004年7月8日

授業参観の日に設定していただいたことで、児童対象のいのちの授業につづき、ご父兄対象のお話しもさせていただけました。


感想文を送っていただきました。 

園田南小学校 いのちの授業 感想文

「命といのちについて」

「命」=難しい言葉だ。とても重く感じる言葉だ。でもこれは言葉ではない。自分の中にあるものだ。
「いのち」=優しい感じがする。なぜだか分からないけれど、優しい感じがする。
「命」=しっかりした感じがする。人は天国に行くと優しくなれるのだろうか。だから「いのち」は優しく感じるのだろうか。
人は、生きているといろいろなものに出会い、人の心を知り、どんなことも体験できる。だから「命」はしっかりした感じがするのだろうか。
そんなことを考えた。この作文を書いて、「命」や「いのち」は、はっきりと答えを見つけるためには、とっても時間のいるものだと感じた。

自分なりに思っていた命は、動き、息をしているとしか思っていなかったが、45分間話を聞いて、考えは変わった。
命のなかで今7月9日10時45分45秒は今しかない。
ぼくは漢字の命しか考えていなかった。でもひらがなのいのちもあった。それは、考えていることや、思い出だ。
命がどれだけ大切か、どんなものかがよくわかってよかった。

「命」は今いる命と聞いて、そうなんだーと思った。
「いのち」のことを聞いて、あっ! と思った。飼っていた鳥のことを思い出して、心の中でまだ生きていると思った。
それからずっと、それまでよりもよく話を聞いて、いま飼っている鳥のことを思った。

「命」は、心も体もすべてが生きていること。
「いのち」(がなくなるということ)は、心がなくなってしまう。
だから、いま、やりたいことをいっぱいして、せいいっぱい生きていたいと思う。

「命・いのち」とは、いちばん気持が大事だと思う。気持がゆるんでしまうと、心もゆるんでしまう。
心がゆるむと、体での行動もゆるんでしまうので、いつも「気持ち」を大切に、そして気持をしっかりさせないといけないと思った。

もう一人の子供(=長男)が言った、「命」は生きている人で、「いのち」は亡くなった人 という言葉にとても感動した。
坂下さんには、どんなことがあってもがんばってほしいと思った。
お兄ちゃんには、妹のぶんまでがんばって生きてほしいと思った。

命、いのち、イノチ、inochi… 命とは、強くそして弱いものであり、人を動かすかけがえのないもの。
みんなの宝物、それが命なのです。ここしばらく、人が人に手をかけるという事件が多発しています。
どうもこういうのは、どうにも止まらない。一度手にかけるともう戻しようがないから、大切にしようと思う。

「命について」

私は弟が病気なので、子どもが亡くなった坂下さんの気持がわかる。
お母さんはがんで、お父さんは糖尿病なので、私は両親が死んでしまう可能性が高い。
もしかして、弟、両親が死んでしまうかもしれない。なので詩を作った。

みんなの命

どうしてみんな命があるの
どうしてみんな同じ命なのに
死ぬ日が違うの
同じ日にうまれたら
同じ日に死ぬのだろうか
家族なら 同じ死にかたなのだろうか
どうして人は死んでしまうのだろうか
いずれ私も死ぬのだろうか
友だちもみんな死ぬのだろうか
私はぜったい死にたくない
たぶん友だちたちも死にたくないと思う

いのちについて、ぼくはこう思った。いのちというのは、たった一つのかけがえのないものだということ。
絶対に奪い合ってはいけないということを、改めて知り、考えた。
世の中ではいろいろな悲しい出来事が起こっている。
人のいのちをいのちとも思わないおゆな思いからわいた事件もある。なぜそんなことをするのだろうか。
そして一つの答えにたどりついた。それは、心が不安定だからなんだ。
不安定になる原因は、自分の話を聞いてくれないというのが理由の一つだと思う。
なぜなら、自分が話を聞いてもらえなかったとき、なんとなく不安で、心から変な感じが浮かんできたことがあるから。
でもぼくは大丈夫だと思う。友達がいるから。ぼくはこのことを大人になっても、ずっと忘れないようにしたい。

私は何度か、「どうして生きているのだろう」と思う。
でもお母さんが苦しい思いをして産んでくれたことは感謝している。
小さいころ、覚えていないけれど、おでこに穴があいたとき、お母さんは私が死ぬかと思ったと言っていた。
家族が死ぬ気持は分からないけれど、命というものを、この十一年間知っていった気がする。

話を聞く前は少し考えが違ったのに、聞いてから、「命は生きていることだけじゃない」と考えが変わった。
体があって、心があって、はじめて命っていえるんだと思った。
坂下さんが、いろんな苦労の話をしてくれたとき、「そんな苦を乗り越えることができたのも、命があるからなんだ」と思えた。

命って、どんなにいいものと交換しようといっても、命は自分の身体の中心なので、交換はできない。

命というのは、生きるのにとっても大事な、ごはんみたいなものだと思う。

天国にいった人たちに「ありがとう」を言いたいような気がした。なんだか分からないけれど、そう思った。ぼくは命をもらい、いま本当にうれしい。

命は、せっかくお母さんのおなかのなかでうまれたから大切にしたい。昨日、お母さんに話したら、「私も命を大事にしたい」と言っていた。

命はどんな生物にもある。だから生きものは命を大切にする。
いま、自殺する人が多いけれど、人は命があるだけでありがたく思わなければだめ。
もし生きものに命がなくなると(人も)死んでしまう。
人はいろいろな生物に助けられて生きている。それもありがたく思わなければだめ。
これからも命を大切に生きていこうと思う。友だちや家族の命も大切にしていこうと思う。

命は1つしかないから、(死んでしまうと)生き返ったり、もうこの世には戻れないことが分かった。
死んだ人にとっては、いま生きている人をとってもうらやましがっていると思う。
命はみんなにとって大事なもの。
動物たちは死んでまで私たち人間に栄養を与えてくれている。そのぶん私は生きていこう。

命と聞くと、ぼくは心臓を考える。でも考えてみると、ほかのものも心臓より(同じように)役割を果たしていると思った。
もし自分が命を落とすと人を悲しませることになる。人には生き続けるために命がある。
命があるからこそ思い出が作れる。せっかくもらったんだから、ちゃんと死ぬまで命を使い切らないと。

私はときどき、何のため、誰のために生きているのだろうと思う。
死にたくなくても死ななければならない人も大勢いるということに気づかされた。
きょうも人が死んだニュースを見た。命は一人に一つしかない大切なもの。
それが心臓だと思う。

ぼくが生まれる前におじいちゃんは亡くなった。でもおじいちゃんを思うと、顔も知らないのになぜか泣ける。
それは、自分自身が生命を大切にしているからだと思う。
生命は大事なものということを、ぼくはみんなに分かっていてほしいと思っている。
生命は、大切にすることで、大切なものだということが分かると思う。

命って何か、前から不思議に思っていた。すべての生物はこの世に生を授けられ、そして消えていく。
話を聞きながら、疑問が少しずつ分かってきた。
一番印象に残っているのは、命は限りなく大切なもの、そして消え去ることなどが分かった。

命は大切なものだとは分かっていたが、話を聞いて、ぼくみたいに小学校に行ける人もいるけれど、小学校までに亡くなってしまうこともあるから、ぼくがもっているこの命を、すごく大事に思ってこれからも生きていきたいと思った。

命は、生きるものに1つしかない。大切にしないとすぐ消えてしまう。
命を大切にしないやつは、消えてしまう。そういうやつは、命と共に散っていく。
せっかく生きるということをもらったのに、選ばれなかったほかのたましいが怒ると思う。
命が2つある生きものはどこにもいない。

あゆみという子が死んで残念だと思った。
命は1つしかないから、1度命がなくなったら生きられないから、残念だと思った。
それに、一切だったから、1年しか生きられなかったことがもっと残念だ。

命は、生まれてほしいときに生まれてくるわけではなく、自分で守って育てていくものだと思った。

命はこの世に1つきりしかないもの。それを勝手に奪ってはぜったいにいけないと思った。

「命」とはなんだろうと思った。ぼくは命は神様がくれた贈り物と思っている。

命っていうのは、生きてるってことを知った。話を聞いて涙が出そうになった。
痛い思いをして産んだのに、赤ちゃんの命がなくなってしまい、とても苦しかっただろう、かわいそうだって、心の中で思った。

命って、前は、生きてるだけと思っていたけれど、いろいろなことがわかった。
それは動くこと、楽しむことなどだ。命って大切だなあ。

命というものは、1つしかなくて、なくなればもう二度ともどらないものなので、とても大切なのに、いままでぜんぜん考えていなかった。
この話を聞いてよかったと思った。

「誕生について」

命は、母親からもらって、母と父で大切にしてくれて、元気な子供になっていって、また大人になったら新しい命をあげて、元気な子供がうまれるようにがんばっている。
なぜ人は戦争をして命を捨てるのか。みんな仲良くできないのか。

話を聞いて、人はみな愛されて生まれてきているのだと思った。
何気なく忙しい毎日で、バタバタと起きて、学校に行って、帰ってきて宿題をして、テレビを見て、おふろに入って… 分からないことは周りの人に聞いて、自分中心の生活をしていているが、(それだけでは)何かにつまづいて大切なものを失うということになってしまうと思う。
おじいちゃんが亡くなったときのことを思い出した。最後のお別れのとき、棺にいろいろなお花を入れ、ふたが閉められたときのことを思い出した。

「身近な死別経験から」

とても悲しい体験をしたことがある。お母さんの弟が亡くなったことだ。家族より友だちより、誰よりも仲がよかった。
私が3年生になったとき、突然入院し次の日、「すぐ来てください」と言われて飛んで行ったが、もう遅かった。
ベッドの上で手をぶらんとさせていて、白目になっていた。
病院の人に、「亡くなりました」と言われ、私は大泣きした。ありえないほど悲しかった。
「絶対こんなんうそやん」と思って、近くの階段にずっと座っていた。
そのあと、おばあちゃんとお母さんに、「○○の倍生きんねんで」と言われて、私は「わかった。絶対倍生きる」と約束した。
さいしょ約束するまで、「○○が死ぬんやったら私も死にたいし」と思っていた。
でも今考えたら、「倍は生きないと○○が悲しむ」と思って、今は何があっても負けないで生きようと思っている。
そして私はそのとき「命は大切だ」ということを知った。

私は一人っ子だけど、本当は弟がいた。
幼稚園のころ弟は産まれ、毎日のように病院に行って見ていた。でも家にくることなく天国へ行ってしまった。
初めて保育器から出てきた弟を見たときは、一回もまばたきせず、冷たくなっていた。
お葬式のとき、父と母の始めての大泣きを見た。
祖母が弟のひつぎの近くで寝ていたことを今でもはっきり覚えている。
今では父も母も元気にやっている。でもこのようなことは、一生忘れないことだと思う。

実は、私は重い病気にかかっている。だから夏休みとかには大阪のほうの病院へ行く。
最初聞かされたとき、「なんでうちばっか」と思った。
そんなことを考えながら坂下さんの話を聞いていた。
「苦しいのは一人じゃない。だから協力し合って生きていくんだ!」
これが坂下さんから聞いた話を自分なりにまとめたものだ。
おかげで私の心のなかの暗闇が光に変わった感じがする。
「光をありがとう」。

2年生のときおじいちゃんが亡くなった。
私は、次の日から自分の命からあふれるほどの涙が出てきた。
その次の日から自分の命がなくなったように感じた。
「自分の命は自分で守ろう」と思っていたことが、急に頭の中から消えていくようになった。
このことを、(おじいちゃんの)命がなくなったからだと強く思った。
いつも一緒にいる命なのに突然消えると、なんだか気持がもてなくなった。
おじいちゃんが亡くなってから、命は、小さくどんどん小さくなっていった。
何年かたつと命が復活してきた。近くにおばあちゃんが引っ越してきたからだ。
おばあちゃんが引っ越すと、おじいちゃんも来るからだ。
おじいちゃんの命がだんだん近くなってくると思った。
それから4年たって、お母さんの友だちがまた亡くなった。
こんなに大切な命がどうしてすぐに亡くなるのだろう。
どうしてすぐに私たちと違うところへ行ってしまう。
「自分の命は自分で守ろう」と思っていたけれど、大違いだった。
自分の命は、人と協力して守るものだと思う。
自分の一生は、命を守りながら、笑ったり、楽しんだり、けんかをしたりして生きていくと思う。
これからは、命と心と気持ちを大切にしていこうと思う。

おじいちゃんが亡くなる前にできなくて、悔いが残っていることがある。
一つ目は、最後に会うことができず話ができなかったこと。
もう一つは、野球で完投を見せることができなかったこと。
それがいまでも心残りだ。その思いを詩にした。
『おじいちゃんに がんばるところ 見せたいな おじいちゃんの好きな 野球でネ』
おじいちゃんは、私たち孫のために生きようとしてくれた。
好きなビールをやめ、たばこもやめたのに、どうして死んでしまったの おじいちゃん。
いつも野球の試合を見に来てくれた。打ったときはほめてくれた。
そんなおじいちゃんが大好きと分かったのは、亡くなってからだった。
もっと一緒に話したかった。もっといっしょにキャッチボールしたかったのに。
毎年、大きなスイカを持って家に来てくれた。
もうあの大きなすいかを持って家に来ることはないんだと思うと、おじいちゃんに突き放された気がした。
でも、おじいちゃんは、ずっと私の心のなかで生きていると思う。
この気持を思い出させてくれてありがとう。

親戚のおじいちゃんが死んだとき、とても複雑な気持がわいてきたのを今でも覚えている。
知っている人が死ぬことによって、いままで味わったことのない気持が心のとても悲しい気持のクローゼットのなかにしまわれると、私は思う。
中山寺という子どものお寺に、一年に十回くらい行っている。
そこにはお地蔵さんがあって、いつもそこに花を置いている。
そのとき、家族に隠れて、目から大きな涙が、なぜか分からないけれど出てくる。

おばあちゃんが亡くなったときは3歳だったので、そのときは、死ぬということがよく分からなかった。
少し前に私が飼っていたハムスターが死んだ。
その命が消える瞬間はとてもつらかった。

飼っていたハムスターが死んでしまったとき、とってもとっても悲しい思いをした。これをきっかけに、今度からは今まで以上に可愛がって、きちんと世話をして、命を守ってあげたいと思った。

私は自分はひどい病気になったりしないと思っていた。
でも話を聞いて、そんなことはないと思った。お兄ちゃんと同じ年の人が白血病で亡くなっている。
信じられないことだった。ものすごく元気な人だったから。
その人のお母さんお父さん弟がとても悲しんでいた。
昨日の話でそのことを思い出した。
そして、命の大切さもいっしょに思い出した。自分の命がなくなると悲しむ人がいることも。

病気のこわさを知ったと同時に、自分の大切な人が急にいなくなるつらさを知った。
私もおじいちゃんを亡くしたとき、本当につらかったので、それは似ていると思った。

去年おばあちゃんが亡くなった。一瞬夢だと思った。
本当だと思いたくなかった。人の命がなくなるということは、亡くなってから、いないと分かっているのに会いたくなる(ものだ)。
おばあちゃんはがんで亡くなった。ぼくは実際にかかったことがないから痛みなどは分からないが、だいたいは人の話でも想像がつく。
おばあちゃんは、がんになるのは一人だけでいいと言っていた
。だからぼくは健康な体でいて長生きしたい。

あゆみちゃんが亡くなったとき、どんなに悲しかったか、子供のぼくでも分かります。
ショック状態のとき、たぶん夫も励ましたりしてくれたと思う。
ぼくのお母さんは、流産したことがあるそうだ。そのとききっと大ショックだったと思う。
お母さんは、「あんたらをがんばって、ふんばって産んでんから、人生がんばってよ」と言ったりする。
命の話を聞き、女の人は大変なんだなあと思った。お母さん、産んでくれてありがとうと、もっと思えるようになった。

話を聞いてショックだったのは、坂下さんの子どもが亡くなったこと。
私の家族が亡くなったら、きっと立ち直れなくなると思う。
よく考えると、身近にいる家族や友だちがいなくなると、とってもいやで、すごく悲しい。
私のおじいちゃんは1年前に亡くなっている。だから同じ悲しい気持だと思う。

坂下さんの気持がよく分かったし、あゆみちゃんの気持も分かった。
一つでも約束が守れてよかったですね。
ぼくも人が死んでしまったときの気持を体験しているので、ほかにもそういう人がいるんだあ思った。

大切な人を失ったことがないので、その人たちの気持はよく分からないが、大好きなアニメの一番好きなキャラクターの死んだところを思い出し、大切な人がいなくなったときの気持とちょっと似ているような気がした。

あゆみちゃんが天国に行ったときの悲しみは、ぼくにも伝わる。なぜかというと、ぼくもおじいちゃんが死んだとき悲しかったから。

子どもが死んで立ち直れないという、そういうことは体験していないけれど、その気持は分かる。ひいばあちゃんが死んだときといっしょと思う。

「死について」

ぼくは、死んでなくなれば別の命になると思っていた。
この生活を変えてみたいと思ったこともある。
ごく最近は、別の命にならなくて、死んだほうがいいと思う気持が強くなった気がする。
でも、話を聞いて、死んだら悲しむ人がいるという言葉が頭に浮かんだ。
おじいちゃんが亡くなったとき、家族みんなが悲しい顔をしていた。
ぼくが死ねば、またあのときのようになると思うと、この生活に耐えて生活しようと思った。

病気や事故のために、もっと生きたかったという気持で亡くなってしまう人がいる。
それなのに、自分から命をなくす人、人の命をなくす人は、おかしいと思う。
死にたくないと思って亡くなった人に命をあげてほしい。
そんなことはできないから、せめて、「死にたくない。生きていたい」と思ってしっかりと生きてほしい。

「死にそうに暑い」など、死という言葉を使うようになったが、私は意味を分からず使っていた。

私は死ということを知らない。死んだら肉体がなくなって、私が見えないだけだと思っていた。
亡くなっても、ただ誰かが悲しいだけですむと、妹が生まれるときまでそう思っていた。
妹の死を考えれば、妹の笑い声が聞こえてきたのだ。
とうぜん空耳なのだが、妹が初めて笑ってくれたのは、1歳2ヶ月のときで、舌を出してバァと言うとひゃっひゃと声を出したことを、いまでも覚えている。

けんかとかしたらすぐ「死ね」と言い合っていたけれど、簡単に使ってはだめだと思った。
友達も本当に死んでほしいと思ったのではないと思うし、私も本当に思って使ったのではない。
しかも、「殺す」という言葉など、これからは使わないようにする。

友だちに「死ね」「消えろ」と言わないようにしたい。
気の弱い子は、嫌がることを言うと、死にたいと思うことがあるかもしれないから、できるだけ嫌がることを言わないようにしたい。
ぼくは必ず大人になります。そして結婚して子供を育て、子供のことを考えて育てる。

人間は、死んだらどこへ行くのだろうと思う。
ほんとうに天国と地獄はあるのだろうか。
ぼくの想像では、天国は雲の上で、地獄はマグマの中だと思っている。
ぼくは、いままでに自殺しようと思ったことが6回くらいあった。
家でしようと思ったこともあった。
でも怖くてできなかった。話を聞いて、もうこんなことを思ったりするのはやめようと思った。

あゆみちゃんは1歳くらいで亡くなってとてもかわいそうだ。
短かったと、あゆみちゃんは思っているだろう。
ぼくは話を聞いて、泣きそうになった。
命の大切さとは、途中で命を終わらせないことだと思う。

人が死んでいくのは悲しいと思った。
それで命は大切にしなければいけないと思った。
元気を出してほしいと思った。

「自殺について」

ぼくは最初、命のことなんか考えたことがなかったけれど、話を聞いて、そんなに大切なものなんだと思った。
人の命は1つしかなくて、命を一回でもなくしたら、もう二度と戻らない。
なのに、なんで自殺をする人がいるのか分からない。

すぐに命を捨てる人がいる。
そんな人は産まれないでいいと思う。
この地球で、命を捨てていくのでなく、命を大切にするところだと思う。

なぜ自殺したり、人の命を捨てたりする人がいるのかと思う。
天国にいっている人は死にたくて死んだわけでない。
命の大切さを知らないから簡単に命を捨てられるのか。
ぼくは、命の勉強をして、もっと長生きしたくなった。

自殺しようなんて思うことは、すごくいけないと思う。
だって、死ぬのは簡単だけれど、生きることのほうが難しいから、そんななかでもがんばって生きていくのがよいことだと思う。

[幸せと生について]

(産まれてから)年月がたてば背が伸びて、足が動いて、元気にみんなと一緒に遊ぶ。
それがあたりまえだと思っていた。だけど話を聞いて、それはあたりまえではなく、幸せなことだと思った。
あゆみちゃんは小さいのに、どんなに苦しかったか、そのことを考えると、なにかにしばられるかのように心が痛くなる。
手紙に書いているいまもとても心が痛む。

私は欲しかったものを買ってもらったり、行きたい所に連れて行ってもらったりしたときに、幸せだなーと思う。
そうではなく、こうやって生きているそれが一番の幸せなんだと、初めて思った。

人が亡くなったら、こんなにも人は立ち直れないのだと思った。
命の大切さと、いまここにいる、生きていることが幸せなんだと思った。

坂下さんのあゆみちゃんに対する思いは、すごく深いものなんだと思った。
それでも坂下さんは、涙ぐんで半泣きで、一こと一こと一生懸命に話してくれた。
もしいまあゆみちゃんが生きていたら、きっと坂下さんはとっても幸せなんだろうなーと思った。
家に帰ってその話をしたら、お父さんが「おまえも気つけや」と言った。
ぼくはいのちを大切にしようと思った。

坂下さんが言っていた「ただあゆみがいてくれるだけでよかった」という言葉で、考え方が変わったような気がする。
私もあと15年か20年くらいしたら、たぶんお母さんだと思う。
私も(子供が)いてくれたら、それだけで幸せだと思って、家族や友だちを大事にしていこうと思う。

生きるってそう簡単ではないということがすごく分かった。
いま初めて思ったことは、ぼくの一番の宝物は命ということだ。
そして、生きるってすばらしいと思った。

私はいま生きていてよかったーと思った。
命がなくなってしまったら、もう終わりなので、命をたいせつにしていきたい。

「自分の誕生について」

この話を聞き、命の大切さを知り、「お母さん、ぼくをうんでくれてありがとう」と思った。

[その他いろいろなこと]

信号が青になったから渡ろうとしたら、車が来てひかれそうになった。
そのとき「危ないなあ 人のこと考えろ」と言った。
(また別のとき)お姉ちゃんは、青だったから渡ったのに車にひかれてケガをした。
あともうちょっとで命が落ちそうになったのだ。
私は、「危なくないようにしないと」と思った。

分かったことがある。人が死ぬと、必ず家族や友だちが泣くということ。
殺してもいないのに「ごめんね」と言って泣く人もいるということ。
人は必ず笑う。人は必ず悲しむ。笑わないのはなにか心に傷をもっていると私は思う。
悲しむことができない、そんな病気に近い心を悲しむ人もいる。
涙は悲しいときに出るもの。けれど涙はうれしいときにもでる。
涙が出ることはうれしいことだ。
笑えるということも、悲しむということも、うれしいことだと私は思う。
話を聞いていているときに思った。

私の家族などは、誰も亡くなったことがないので、誰か亡くなった人の家族の気持はまったく分からなかった。
でも、お話しを聞いて、人が死ぬとそれだけ悲しいんだ。
自分も一緒に死のうと思うくらい悲しいんだということが分かった。

私たちみたいに幸せな人ばかりではないということが分かった。
子供が幼いときに死んで、つらく、苦しんでいる人はたくさんいる。
そういうお母さんは、子供に「ごめんね ごめんね」と言っていることを知って、何で悪くないのに謝るんだろうと思っていたけれど、いま考えてみれば、それまで繰り返してきたことを謝ったり、ちゃんと育てられなくて「ごめんね」なのだと思った。
命は大切で、いくら長生きしてもそんはないと思う。
だから坂下さんも、つらいことがあってもずっと生きていってほしい。

生きる希望は大事だと思う。
ぼくは2年生のときいじめられていたが、友達を見つけてから元気になってきたので、(孤独なときの)気持は分かる。

母親は子供を大事にすると思った。
もしあゆみちゃんが生きていれば、どんな子になっていただろう。
きっと優しい子だと思う。

ぼくは喘息が出て夜に苦しくなったとき、「だめかもしれない」と思うことがあるが、簡単に命をあきらめてはいけないと思った。

最近、人を殺す人が多くなっている。
なぜ人を簡単に殺す人がいるのか分からない。
人が死ぬといろんな人が悲しむ。だからぼくはそんなことはしたくない。

私も、妹がけいれんを起こしたとき、全身が固まって、涙が止まらなかった。
坂下さんの子供は助からなかったので残念だと思った。
そういうことをみんなの前で話すのはすごい勇気だと思う。
命にかかわる話はとても心に残る。

私は小さな子供が大好きなので、将来は幼稚園の先生になりたいと思っている。
なのに自分の子供が亡くなったら、ショックでもう体がぼろぼろになると思う。
家に帰り、お母さんに話したら、「ほんまかわいそうやなあ。
でもちゃんとがんばって生きてんねんで」とお母さんが言った。

坂下さんは、自分が死んだらまた親がその(ように悲しい)思いをするので、元気を出しているので、ぼくも事故などにあわないように気をつけようと思った。

坂下さんは、子供が亡くなったので、死にたいと思ったと言っていたけれど、そんなことをしてはいけない! と思った。
命はとても大切なものだから、なくなってしまったらもう終わりだし、せっかく命をもらっているのだから、大切に使わないといけないと思った。

小さい命は、特に気をつけて面度を見ないといけないということを教えられた。
命を大切にしなければならないということは、人々にとって常識の規則だけれど、赤ちゃんはこんなことになる。
大人になれば、この話を思い出して気をつけなければならないと思う。
せっかく生まれてきた命を大切に大切にしていくという気持が伝わってきた。
その気持を受け止めて、これから気をつけていこうと思う。

ぼくは家族のだれかが死んだ経験はないが、もし自分がその立場になったら、どれだけ悔しいか、いっぱい伝わってくる。
ほんとうにそんなことがあったら、この話のような気持になると思う。

たとえどんなときがあっても、死んではいけないということを坂下さんは教えてくれた。
家に帰ってお母さんに話すと、「へえー かわいそうな話やなあ」と言って話した。

私にはやっぱり坂下さんの気持はあまり分からないけれど、目の前で大切な人(祖父母)を亡くした姉やお母さんは似たような気持になったんじゃないか。
私はわからないぶん、人生を悔いのないよう過ごしていこうと思う。

子どもを亡くしていながらも、前向きにがんばっていこうという気持が、とてもよく伝わってきた。
坂下さんに、あゆみちゃんの分まで長生きしてもらいたい。そうすればあゆみちゃんも喜んでくれると思う。

今までこういうことを聞いたことがないので、最初は「へえー」と思っていたけれど、いろいろと聞いていくうちに、こんなことが目の前で起こったら「いやだなー」とか「かわいそう」とかも思った。

あゆみという赤ちゃんを亡くしてしまった。
とても悲しかったと言っていた。
病院が見つからなかった。
いっぱいいっぱい探したらしい。・・・感想箇所はなし

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ほかに、話を聞いて涙が出そうになった という言葉も多数。

私の語りでは、自殺、たましい、神様、には触れていませんが、子供たちの発想は豊かでした。

なかでも死別体験がある児童は、表現が豊かで内容が濃いのを感じます。

 

誤解(伝達不十分な反省点)

・ぼくの命は一つしかない。でも昨日、坂下さんは、「2つある」と言った。本当かな?と思った。でも信じようと思った。

・坂下さんは自殺をしようと思ったと言っていた