生きる目的

2008/12/25

先日ここで書いた「1年間だけ生きる目的」を読んでくれた「小さないのち」の仲間から、
メールが届きました。件名は、今回のタイトル「生きる目的」で。

私が書いていたのは、
<思うようになったのは、どの人も生まれてくるには目的があるのではないか、ということ。たった1年… なんであゆみだけ… とずっと思ってきたけれど、この「1年」にあゆみの目的がこめられていたのかもしれない。だとしたら、それは何なのだろう。ぜったい、あったと思うし、思いたい。>でした。

Tさんが書いてくれたのは、
<私は観点が違って、☆☆が早く行かなければならなかった理由。なんで☆☆が選ばれて天に召さなければならなかったのか、という理由を探しています。 中略 きっと理由があるはず。私にもわかるはず。それが最後の最後の瞬間だったとしても。>

結論から言うと、
観点は違っていないと思います。
出発は私もTさんの地点でした。(1歳で行かなければならなかった理由を考える)
でもそこはとても苦しい位置に思え、動こうとしました。
で、確かに別のところ(1年間だけ生きた目的を考える)へ場所を移したはずなのですが
どうも、あまり離れていないようなのです。

誰でもそうだと思うのですが、つい、
自分の気持ちの位置、本心を考えるとき、
ただ1点、マルの中心点のようなところを、探ろうとしますよね。
でも、人間なんて、真ん丸で描けることなどなく、
大抵の場合、描けば長丸なんだと思います。
この場合、
「理由」と「目的」を行ったり来たりして
私は生きてきたのだと思います。
そしてこれからも、
「理由」と「目的」の両方を考えることに人生を支えられて
私は生きていくのだと思います。

「真理とは、2つの中心点をもつ楕円である」
という有名な言葉を、私は知りませんでした。
教えてくれたのは、小児科医の船戸正久先生(淀川キリスト教病院)です。
あることで私が悩んでいて、「ひと言」くださったときのことです。
普通にお食事しながら、さらりと言ってくれるというのが、人物の器ですね。

そして、私もTさんと同じ考えで、
私の子は、きっと、選ばれた「なにか」だと思おうとしています。