思い出の数だけつらい?

2011/10/15

毎日を独特の世界で暮す母が
きょうも2階に来て話し込んでいった。←二世帯住宅です
あゆみの遺影に向かって座り、
私に語りかけているのか、独り言なのか
「ね−、こんな小さい子でもねー
思い出ってそんなにないのにねー
少ししかない思い出が、つらいのよねー」

私、そばで聞きながら
どうなんだろう・・・ と思った。

母は、いまも心から、あゆみがいなくなったことを
惜しみ、悲しんでいる。
なので、母の語りは第三者的なものではないと認めている。
けれども、1つひっかかる。

「思い出」がつらいのだろうか?
とすると、思い出が少ないほうが、まだ「まし」で
思い出が多いほど、つらさが増す、ということ?
思い出の量と、つらさは、比例するのだろうか?

そうなのかもしれない。
大きな子どもを失ったことがないので、よくわからない。
少なくとも、あんなに小さいあゆみを失ったことを
身内のみんなが、今も、こんなにも「つらい」と思っているのだから
もっと大きくなってから失っていたら、一体どうなっていたのだろう。
あまり聞かない話ではあるが、一族総倒れ、だったのだろうか。

結局のところ、実際に体験していないことは、よく分からない。
ワカラナイのだけれど、何となく
〜の量、〜の大きさ、そのものが悲しみに比例する
ということではなく
悲しみは、存在の大きさに比例するのではないだろうか。

あゆみは、見た目にも本当に小さく、
重量でいうと、片手で抱えられるほどの子どもだったのだけれど
私にとって、我が家にとって、親族みんなにとって
あまりに大きな「存在」だった、と思う。