かけがえのない同級生

2016/04/22

昨日、「亡き子の友人」について書いたが、
子どもを亡くした親が言うことで
賛否が両極端に分かれることが、いくつかある。
その一つが、同い年の子の弔問。

お通夜、告別式、その後のお参りで
亡くなった子と同い年の子が訪れることを
「何より嬉しかった」と語る人と、
その真逆のことを語る人がいる。
その違いはどこにあるのか、気づいたことがある。

違いは、子どもの年齢だと思う。
子ども自身がお別れに来てくれているのかどうかだ。
だから年齢が関係する。

あゆみの場合も、お通夜にも、告別式にも、その後にも
同い年の子は来てくれているが、
そこ子自身にお別れの意識はまったくなく、家に置いておけないので
親が連れて来ていたに過ぎない。
だから、別れを惜しみ死を悲しんでくれたのは、親のほうで、私の知人。

私の知人が、深い気持ちで来てくれたことは
ものすごく有り難く、嬉しかったが、
もう一つ正直な気持ちとしてあったのは、
当時は、あゆみと同じ年恰好の子を目の当たりのするのが、つらかった。

直後であれば
この子は何事もなく生きているのに、私の子だけが
時間が経つと
私の子はいないのに、こんなに大きくなったんだ

そんなことしか感じられなかった。
だから、できれば、子どもを預けて、
あゆみのことを想ってくれる本人だけ来てくれると
もっと有り難かった。

そういう意味でも、
わが子のことを想ってくれて、死を悼んでくれる、わが子の友人は
大切な、特別な人だろう。
友人だけが知っているわが子、も存在するのだろうし、
何より、わが子が大事に考えているだろう相手だから
ほんとうに、かけがえのない人なのだと思う。

そういうわが子との直接の関係性というのは
幼稚園児くらいから生まれるのだろうか。
毎日、親と離れて過ごす時間が共有される頃から。
だから「同級生」という言葉が使われる年齢に達すると
亡くなったわが子の友人は、親にとっても大切な存在になるような気がする。

幼い同級生は、亡くなった友人を記憶にとどめることが、むずかしいかもしれないが
それでも、親御さんが家庭で、担任の先生が園で、話題にしてくれることで
亡くなってもずっと覚えていてくれるように思う。幼くても。

亡き子のことを、ふつうに、自然に、話題にし続けてくれることを、
うれしく思う親は多い。