一般人との会話の着地点はどこだろ

2022/10/29

一昨日書いたこと、改めて、やっぱり、ムズカシイ。

一般に、家族の悩みを打ち明けたとき、

その人のことを知っていたら、

「そう見えないけど」と返し、

その人のことを知らなければ、

「どこもそうよ」と返すのは、

相手の気持ちを気遣って、のように思える。

 

けれども、打ち明けた本人は、

わかってもらえない、とか、軽く交わされた

と感じるようだ。

 

では、子どもを亡くした親の場合、

「どこもそう」「うちもそう」はないことながら、

案外、それに近いところには行くようだ。

 

子どもを亡くしたことを打ち明けたとき、

「私も父(母)を亡くして辛かった」

と返ってくることは、よくあると聞く。

つまり

「同じよ」とか「だからわかる」は

一般人には求めていない、ということだ。

 

こういうのも聞く。

「可哀そうと言われたくない」

つまり

いくら幼く、或いは若くして亡くなっても

憐れみはかけられたくない、ということだ。

このことが、子どもを低く置かれたのだとすると

逆もあるように思う。

 

「そんな辛いこと、私だったら生きていけない」

これ、最高に高く置かれているのかもしれない。

生きていけないほど辛い中を生きる強い人、として。

ところが、これ、おそらく

最も言われたくない言葉のようなのだ。

 

横も、下も、上も、そぐわない

となると、、、

いい着地点は、どこなんだろ?

 

着地なんて、なかなかできません、

ということかもしれないし、

着地、させようとしないで、

ということなのかもしれない。

 

相手だけ、さっさと着地して

こっちは宙に浮いたまま

ということも、よくある。