子どもの写真がもつ様々な意味
2022/01/01ダイキは、仕事で朝が早く、夜は遅く
土日も休みがほとんど無いため
あんまり話しができなくなったが
さすがに元旦は一緒に過ごせた。
ダイキには、前の職場に
とても尊敬し、憧れるような大先輩がいた。
きょう、そのかたの話になって、
私は、ダイキはさすがだ、と思った。
その方の奥さんを、私はよく知っている。
でも、まさか、旦那さんがダイキの勤務先に
おられたとは、思いもしなかった。
その方にはお子さんがいて、
その子は亡くなっているのではないか、と
ずっと感じていた、と言っていたので
なぜそう感じたのか、きょう尋ねた。
職場のデスクに子どもの写真を置く人は、
写真を入れ替えていくことが多いらしい。
子どもの成長に合わせて。
また、家族で出かけたなど、行事性があるらしい。
疲れた時など、家族を思い浮かべ、
仕事がんばろう!と、鋭気を養うのだろう。
でも、その方のデスクのお子さんは
ずっと同じ写真で、
お子さん一人の写真で、
その子のことを想うために置かれている
と感じていたらしい。
さすがだ、と思ったのは
そうした洞察力のようなものでなく
そのように感じていて
相手から一切話題に出ることがないなら、
最後まで、
自分のなかで感じ続けるにとどめたこと。
こういうことは、
ダイキが、ではなく、
死別の環境で育った子どもたちが養う
わきまえ方みたいなもの
のように思えるのだ。