言葉を満たすもの
2007/10/18 このごろ元気なさそうだけど大丈夫?ってよく尋ねられてます。
元気ないんですが、そのワケはまたお話しすることにして
京大病院ボランティアグループ「にこにこトマト」さんへの原稿の締め切りがきたので、
こんなの書いて送りました。
「言葉を満たす心」
脳梗塞で倒れた伯父が、とても苦しんでいます。命を取り留め、意識を回復することができたときが苦しみの始まりでした。言葉を失ったためです。身体が動くようになっても言葉が戻らない。時々、いたたまれず物を投げつけるほどのもがきよう。言葉がうまく使えないもどかしさがこれほどのものと知り、私は一つの考えが揺らぎました。
これまで、大事なのは「言葉じゃない」とよく言っていました。たとえば医療者の皆さんから「どんな言葉かけが患者さんを励ましますか?どんな言葉が傷つけますか?」と尋ねられることがよくあるのですが、私が知る実例を試したとして、その患者さんが癒されるわけがないからです。
でもそれって、自由に言葉を使えるから言えることじゃないか?と思うようになったのです。コミュニケーションにおいて言葉が果たす役割は2割程度と聞きます。表情やいろんな要素が相互作用して豊かなコミュニケーションが成り立つわけですが、そうであっても言葉を取り上げられた世界って… 想像もつきません。
そのことを考えていたとき、ハンセン病のために瀬戸内海の大島に隔離された人々のドキュメンタリー番組を見ました。この病気は指先の神経が冒されるため、目が見えなくても指で点字を読み取ることができません。ある目の見えない患者さんは舌で点字を読むので、舌が荒れて食べ物の味が分からなくなったといいます。ものをおいしく食べること以上に言葉を必要とした人を通して、人間にとって言葉がいかに大事かを教わりました。
「言葉じゃない」なんて簡単に言えるものじゃない。でも、言葉そのもののもつ能力は限られている。第一、人が抱く果てしない心配や、愛情を、二言三言の言葉にこめることができるだろうか。言葉数を増やせばかなうものでもない。
行き着いたのは、どれほど言葉が大事で欠くことのできないものであっても、言葉で思いそのままを伝達することは難しい。だけど発する言葉の一言にも思いのたけをこめることはできるかもしれない。ということでした。心を言葉で満たすのではなく、言葉を心で満たす考え方です。形のあるものには必ず限りがあり、この限界を満たしてくれるのは形のないものしかないと感じています。