聴くということ

2007/07/25

 「聴くことしかできないけれど、聴くくらいはできるから、いつでも言って」
と声をかけてもらい、嬉しく思えなかった。 のつづきです。

 心がとても弱った状態にあるとき
かけてもらう言葉はなくても、気持ちを聴いてもらったことが嬉しかった
という経験、遺族はみんなしていると思います。
「聴く」ということがとても大事な援助だと理解されるようになり、よかったのですが、
「気持を聴いてあげるだけでも、ご遺族(あるいは患者さん)の気分を楽にすることはできるんです」と伝達されているのを耳にすると
それはどうだろ?と思います。

 本来助ける側が、すでに何も出来ない状況になっているのだから、
職業がどんな専門職であったとしても、
弱っているその人と、もう同じ高さだという認識がなければ、
いくら弱っていても弱音を出せない思いがするはずなんです。
だって、もっと惨めになるから。

 これって分かりにくいかもしれないし、理屈っぽく聞こえるかも
と躊躇しつつ話したとき、居合わせた男性が(大学の先生らしい)
「オレ 年とって どんなに弱っても
ハイハイ おじいちゃん お歌うたいましょうねー って
子どもみたいに扱う施設に オレは入りたくない」
っておっしゃった言葉が、それだ、と思いました。

 つらい状況にある人の話というのは、
その人はいまとても弱っているかもしれないけれど、
こちらがしたこともないような体験のなかを通っている人なわけです。
(お年寄りであれば、身体的に弱っても歴史や年輪というものがある)
そういう話には敬意を感じるのがほんとうだと思うんです。
少なくとも、聴いて「あげる」ではないはず。

 「聴くくらいのことしかできませんが」と言うと、口調は丁寧ですが、
聴くなかに「できる」があり、
聴くことを「くらい」と軽々考えている。
思いが本当に聴ける人は、そういう言い方はしない。
どうにも力の及ばないとき、解決に向けることができないのは仕方ないし、当然だと思う。
でも、自分は力を持っているわけではないという自覚に立って聴かなければ
当事者との感情のズレや、高低を、さらに作ってしまうと思うんです。