ものいうのは口か目か

2007/07/04

 あるケアの研究会で話を頼まれ、ちょっと理屈っぽく話してきました。
ほかでもないケアを専門に考える研究会だからです。
期待する対応を、初級・中級・上級に分けたなら(実は私、三段階くらに日ごろ分類してる)
「上」に相当する、弱ってるときによろしくない、しかも見落とされがちな言動を、
当事者として、つまり死別や闘病などによりこころが非常に弱った状況にあった頃の視点で述べました。
たとえば、かけられて悲しい言葉の一つは
(気持ちを)「聴くことしかできませんが」と言われたときだった など。

 この言葉は、別の当事者の多くが、「うれしい」配慮にもってきているはずです。
いっつも、え?と思うけど、何故かはまたこんど書くことにして、
別の当事者が「うれしい」ことと、私が「つらかった」ことが
真逆の場合がよくあって、ほんとうに逆ならそれでいいのですが、
(もちろん真逆はあり、人はいろいろ・それぞれなのが前提です)
確認し合う機会があると、私の側に来てくれることが結果的によくあるんです。
そーだね、アレ勘違いだったみたいって。

 たとえば、看護師さんの「笑顔」―初級編
『いつも笑顔で接してくれたのがうれしかった』と、
非常に深刻な状況にあった当事者からそう聞くと、
私はその場で白い歯が似つかわしくない光景が浮かび、
にこにこしてなくても、もしかして笑顔でなくても、
やさしい面持ちとか、心の通う接し方が大事なのでは?
と尋ねると、「そうそう」となり、
結果的に、『いつも温かい眼差しでやさしく接してくれた』
という状況描写に変化したりするのです。
 
 看護学校で「看護師は笑顔!」と教えられるかた、多いみたいですが、
やさしさ=笑顔というはいわゆる固定観念で
患者は、それぞれ・いろいろだということを知ってほしくて。