命日に、墓前で思う

2012/02/28

子どもを亡くす、といった
思いがけなく、受け容れがたい事態に遭遇した夫婦のその後は
その子の両親である自分達しか、知り得ない感情を共有することにより
夫婦の絆を、より強めることもあれば
自分達しか知り得ないはずの感情を、共有しきれないがために
破綻に追い込まれていくことも、ある。

おそらくは、多くの家庭で、両方の気配を実感しつつ、
何とかして、食い下がるように、現状維持に努め
荒波を越えていくのではないだろうか。

わが家も例外ではなく
つい先日も、「父さん、あの頃、どうやって耐え忍んだの?」
と尋ねたとき、「もう忘れた」とだけ返されたことは、
とても虚しく、
家族がいながら、孤独を感じたりした。

そんな感情を引きずりながら、あゆみの命日を迎えた。
お墓参りに行くと
私は大抵、ぼんやり突っ立っている。
夫は、墓石の掃除に余念がない。
その姿は、まるで、あゆみをお風呂に入れていた頃のよう。

あゆみは、お風呂が好きだった。
特に、夫と入ることが好きだった。なぜなら
私は、じゃばじゃば湯を掛け、ごしごしこするが
夫は、そっと湯をかけ、こすったりなんかしない。
私は、さっさと上がり、上がるなり用事に取りかかる。
夫は、湯船でひとしきり遊び、ゆっくりと上がってくる。

もう、あゆみは、いないけれど
墓石とその周りをきれいにする夫の仕草に、
「相変わらずね」と、小さくつぶやく。

ロウソクに火を灯し、目をつむって手を合わせる。
心の中で、いろんなことをつぶやき、
「じゃあね」と目を開けるが、
まだまだ、目をつむったまま手を合わせている夫の姿に
「許そう」と思った。
普段、私の語りかけに、無頓着なことや
「もう忘れた」
なんて、無愛想な返し方をすることなんかも。

それ程あゆみちゃんのこと、想ってるのなら
ぜんぶ帳消しにしてあげる。