駅の階段ふみ外す

2013/08/06

朝から照りつける太陽。
日傘なしには歩けない。

出勤途中、阪急電車から京阪電車へと移動し
京阪祇園四条駅へと降りていく階段を
日傘をたたみながら、スタスタと下ってしまった。

そんなことして、足下が見えない上に、
ここの階段、独特なカーブがあって
スタ スタ スタ ズル っといってしまった。

向こうずねから、思いっきり。
「痛った〜」
実際、口に出して言うんだ と思った。

言うも、言わないも、自由だけれど、
おそらく、痛った〜と発すほうが
いいような気がする。
他人に聞いてもらうことが目的ではまったくなく
自分への同意。そして相づち。
(痛いよ うん めっちゃ痛い)

と同時に、いくつものことが頭をよぎった。
それは、総称して「よかった」感。

階段踏み外して、痛い目して、恥ずかしい思いして
それでも、「よかった」と瞬時に思ったのだ。

その1
端を歩いててよかった
手すりにぶらさがることができた。
つかまらなければ、下まで転がり落ちたに違いない。

その2
前に人が歩いていなくてよかった
自分だけ手すりにつかまり、その人は転落
なんてことになったら、謝って済むことではない。

その3
もし私までもが、救急車で運ばれて入院
なんてことになったら、
両親の介護、これから誰が・・?

介護でくたくたでありながら
自分に使命感がちゃんとあることにも気づいた。

もう1つおまけで、その4
傘をたたみ「ながら」階段を降りることは
非常に危険だと知った。
今ごろ?
この年になったから、思い知ったとも言えるが。

以上、書くとダラダラになるが
「痛い」と同時に次々と思い描いたこと。
これには、理由があると思っている。

つらい中で、そのことの意味を探したり、
何かを学びとろうと、必死で考え抜いた過去の経験が
端々に暮らしの中で見られるのだ。
あゆみを亡くした「つらい」は
階段から落ちて「いたい」とは、比較にもならないけれど。