わが子の死にちがいないのに
2019/07/08流産・死産の当事者に向けた講演をさせていただくために
このところ準備をしていた。
子どもの死、わが子との別れ、に違いはないが
そこには特化した内容もあるので。
1日でも生活を共にした子どもかどうかで考えると、
誕生と同時に新生児の集中治療室に送られ、入院が続き、そこで亡くなった子は、
親と生活を共にしたことは1日もない。
なので、お腹の中で亡くなったか、誕生して亡くなったかだ。
どんなに早く小さく生まれても、
誕生したからには、即座に万全の体勢で医療が施され
親にも子にも、多くの専門家の手が伸びていく。
かたや、大きく生まれても、直前にお腹のなかで亡くなっていたら
まったく境遇がちがい、何も得られない。
親にとって、かけがえのない一人の子どもが、
法的には、呼び方まで違って、1胎とされる。
小さな子どもの死は、社会的には存在があいまいなところがあり
まだ保育園にさえ行っていなければ、知っている人もわずかだったりするが
だからといって、disenfranchised grief(非公認のグリーフ)
に位置づけられることは、絶対にない。
周囲からも、親にとって最大級の一大事と認識されるだろう。
人に知られていなかったり、知らない人には言わなかったり
ということは、子どもの親全般にあることだが
流産であっても、死産であっても、子どもの死に対しては
ことの大きさを、「その人にとっての」大きさのまま
受けとめられたらなあ、と思う。