1000回目の日記です。らしく書いた。

2020/09/14

きょうは、この日記1000回目の日。

でも、何にもなかった日。

こんど講演する資料を作っていただけ。

作りながら、急に思い出して(資料とは無関係に)

1点見つめたままになったことを書こう。

 

子どもを亡くした親の後悔には

「あのとき~~していたら」というのが多い。

初期症状に「もっと早く気づいていたら」や

治療の限界を越えて「頑張らせ過ぎた」などは、

実際的でわかりやすいが、

「丈夫な体に生んであげられなかった」が、

後天的な病気であったなら、因果関係が定かでなく

何もかも自分のせいにしてしまう傾向が伺える。

 

因果関係が定かでないどころか、

まったく関係がないことさえも、自分のせい。

 

例えば、治療の限界が見えてきたとき

「私がもう駄目かもしれないと、思ってしまったから」

に至っては、親の念力で治すわけではないのに

マイナス要因を親が引き寄せてしまったように

悔やんだりする。

 

さらには、私が出会った人で、

「そこまで・・・」と、もっとも感じられた母親は、

母親は「おかしい!」と捉え、そのむね伝え

でも診察や検査では兆候が把握できず

「様子みましょう」となり、それが続き、

「おかしい」と訴えて、訴えて、

ええ確かに!となったとき、

「ほら私が言った通りじゃない」

と思った次の瞬間、

とてつもない罪悪感に襲われた、と言う。

 

異常を主張するエネルギーが

より悪い方へ悪い方へ方向づけたような気がし

そうして「ええ確かに」と認められたとき

それ見たことか!みたいな

あたかも勝ち誇ったかのような

「あー、よかった」は、

子どもの最悪に対して、でもあるのだ。

 

のちに子どもは亡くなって、遺された親には

喪失感だけでなく罪意識まで舞い降りた・・・

 

この人の話を聴いて、心から思った。

親の訴えに、耳と心を傾けてほしい。

 

不安でたまらないときの「様子みましょう」は、

恐怖への突き放しになってしまう場合があるだけでなく

被らなくていいことまで、親が被ってしまう場合があること。

 

1000回記念だけれど、重い内容になってしまった。

でも、基本、この日記は軽く書くものではないから

これでよし。