普通の人は聴き続けられないようで
2020/09/26当事者側にある個別性と、相手側にある個別性
の続き。
亡くなった子どものこと、
誰にでもは言いたくないとか、まだ言葉にできない
という当事者にとっては、何も訊かれないことは
過ごしやすさであり、優しさとも感じられるだろう。
では私のように、
亡くなった子のこと、知ってほしい派にとっては
その話を、耳と心を傾けて最後まで聴いてくれたとき
優しいなあ、と実感したりする。
でも先日、
話しださなければよかった経験を、(また)した。
仕事おわりに食事に行き、
お子さん亡くされた人(←当会会員さんではない)がいて、
普通の人たちがいて、私、全員ビールも頼む。
お子さん亡くされた人が、お子さんの話をされたので、
私は、食べるのそっちのけで、聴き入った。
話していいんだと思って、私も話し始めたとき
一人が、そーっと、たばこのため席を離れる。
吸わない私にはわからないことなので、
トイレと同等と考えることとし(トイレでも離れないけどね)
そのまま話し始めたのだけど
たばこの人をきっかけに、別の人がビールお代わりを頼み
ビールをきっかけに、別の人がメニューを開き
全員で注文を増やす運びに。
私もそこに参加する。平然と。
そして注文が終わっても、
話しかけていたあゆみの話には、戻さなかった。
このとき考えた。
まず、お酒の席で大事な(子どもの)話は、
やめておいたほうがいい。
そして、普通に暮らす人には、
子どもを亡くした話は、1人だけのほうがいいかもしれない。
1人分聴くだけで、
たばこやビールで鎮静を図らないと、
もたなくなってしまうのかもしれない。
ほころびは見え隠れしたけれど
体験者の話を、ちゃんと聴いていたことの証
と考えることにした。