無神経は小さな悪意かもしれない

2021/03/09

「悪気がないことはわかっているんです。」

と、よく前置きされることだが、

「ほしくない親切」について話題になった。

 

ここで生じるのが

亡くなった子が、大きいか、小さいか、だ。

つまり

亡くなった子の人間関係から「ほしくない親切」が届く場合

親は、かなり悩むと思う。

わが子の人間関係は、大事にしていきたいと考えるからだ。

 

私などは、あゆみの人間関係、ほぼなかったので

ほしくない行為と距離を置くことは、容易かった。

 

友人だったけど、ほしくなかったのは、

その人の子どもの情報。

しょっちゅう写真で知らせてきた。

最初のうちは関心を示すよう努めたが

しょっちゅう、となると、見せびらかしに思え

返事が滞るようになり、写真も滞っていき

疎遠になった・・・

 

別の友人は、子どもがピアノを習い始め

電話で、しょっちゅう聴かせてくれる。

最初のうちは関心を示すよう努めたが

私は音楽の仕事を辞めてしまったくらいだから、

「ごめん、もういいかなあ?」と言ったら

電話は止まり、やはり疎遠に。

 

なぐさめや励ましのためだったのか?

抑えきれない幸福感のお裾分けだったのか?

よくわからない行為だった。

 

という私も、よく考えてみれば

彼女らと同様の一端は、あったのだ。

あゆみが生まれたあと、年賀状も暑中見舞いも

写真入りのものを送りまくっていた。

 

あれは何?

見せびらかしだ。

 

送り先に、子どもを亡くした人はいなかったものの

子どもが欲しくても授からない人、きっといただろう。

流産などされた人も、いたかもしれない。

 

そういう発想すら働かないほど

幸せすぎて、浮かれきっていた私、

同類だ。