自分を追い込む意味の取り方しかできなかった

2022/06/03

昨日は、一周忌ごろのことを書いたが

明日、私は、

学生の、卒論のためのインタビューを受けるので

あゆみを見送った当初のことから話す。

 

ふと思った。その学生さんは

あゆみが亡くなった時には

まだこの世に生をうけていなかった人・・・

 

で、その人が生まれた頃の私って

お腹の大きい女性とか

ベビーカーを押している女性は

直視できなかった。まぶしくて。

 

そのベビーカーに乗っていた赤ちゃんが

大きくなって

私たちの研究をする人になっているって、

なんだか、ヘンな感覚。

 

頼まれているのは

子どもとの死別後を生きていくうえで

どういう「意味づけ」があるか知りたい、ということ。

この話をするには、「長いよ」

ということは言っておいた。

 

意味づけとは

A(子どもの死)と、B(何か別の出来事)を結び付けて

自ら生きやすくなるような筋を描きだすこと。

 

よくテレビなどで聴くのは

「大切な存在を失ったことにより

当たり前の暮らしが、どんなに幸せかを、知った」

という言葉。

その通りだと思うが、

これは、ものすごく短縮して言っている言葉だ。

 

実際の当事者は

子どもの死と、別の出来事を、結び付けて

自ら追い込んで、追い込んで、

苦しみ抜いた先で、

一歩、二歩、前に進む程度の意味を見出す。

 

決して一足飛びには、いかないのだ。

たとえば

仕事を一生懸命することが、いけないはずはないのに

仕事に一生懸命だった私だから

時間に余裕がなくて、いつも疲れていて

子どもが後回しになってしまい

あの日、あのことは起きた

と本気で考えた。

 

これも間違ってはいないし、嘘や大げさはない。

このように、幾度となく

何通りもの「結び付けかた」を通って

ようやく、少し

自分にとってプラスの意味も描けるようになった。

 

でも、だからといって

子どもの死そのものに

価値を置くような「意味づけ」は

出てこないのだから

プラスの意味も描けるようになる、と言っても

ほんと、ささいな、小さなプラス。