子どもの気持ちは親にも分かりにくい

2022/11/02

先日、一般人との会話について書いた。

相手を一般人と言い、じゃあ自分は特別人なん?

て感じだけれど、そうではなく、

ここで言う「一般人」とは、

お子さんを亡くしていない人々のこと。

 

おそらく私たちは、

ちょっとの会話だけで、一般人から

共感を得るのも、同意を得るのも、ムズカシイだろう、

と思って書いた。

別にそれはそれで良く、だからこそ

共通体験者との交流を大事にしている。

 

ところが、きょう、

私が一般人の側となり

良くない対話になったように思う。

 

相手のかたは、お子さんを亡くした親ではない。

ふとしたことから、

「学校、行かなかったんです」

とお子さんの話になり

高学年でほとんど行かなくなり、小学校が終わり、

中学校、ほぼ行かず終わり、

高校はどこにも行くことなく

卒業の年齢に達して、毎日家にいます

と話された。

 

私、「つらかったでしょうね」

と言ってしまった。

 

相手の方は「いえ、最初のうちだけで、

本人の意思もありますから」と仰るので、

え?あ・・・

 

私が思ったのは、ご本人のことで、

人称代名詞を入れなかったことで

お母さんのこととして伝わっていた。

 

お母さんにとっては、つらいことではない

というのが結論としてあり

そこを「つらいでしょう」と言われては、

私たちが日ごろ感じることと、似たようなことが

起きている気がした。

 

言い訳めいたことや

ごちゃごちゃ言うのは、やめておきたくて

黙っていたら、

この話は、これで終わった。

 

ちゃんと終わったのだろうか・・・

互いに気まずく、終わりにした

ような感じだったのだろうか。

 

では、「お子さん、つらかったでしょうね」

は、どうなんだろう。

 

多分、つらかったと思うけれど

おそらく、「わからない」ということかもしれない。

本当の気持ちは、本人にしか。

 

私たちの場合、亡くなった子どもの気持ちは

本人にしかわからないままとなり

親にもわかりにくい。

 

生きている子の気持ちだって

親にもわかりにくいように思え

もしかして

本人にもわかりにくい、

ということが、あるようにも思える。

 

それほど、生きている、ということは

多様で、複雑で、繊細。