差別と同じくらい嫌だった「決めつけ」

2023/03/09

昨日書いたように、差別はいけない。が、

私は「決めつけ」もとても良くないと思う。

自分がされて、いやだったから。

 

「ステレオタイプ」と「偏見」と「差別」

の講義を受けながら、思い返していたことは

実は、大阪のおばちゃんのことよりも

あの日の「決めつけ」のことだった。

 

あゆみが亡くなって、しばらくして、

私は、最初の診断を誤った病院を訪ね、

当日の医師に会いたい、と頼んだが

会わせてもらうことはできず、

対応に当たった院長から、こんなことを言われた。

 

「お子さんが亡くなった原因を、

誰かのせいにしたいのは分かりますが」

 

この後の言葉は、記憶に残っていない。

あまりにショックだったから。

なので今回考えてみた。

 

たとえば、

「子どもを亡くした親は、悲しみが怒りにも似る」

と言ったなら、

これは事実とも思えるが

全ての人ではないだろうから

「ステレオタイプ」にあたるだろう。

 

「だから子どもを亡くした親は、誰かのせいにしたくなる」

と言ったなら、

「偏見」になるのだろう。

 

さらに

「子どもを亡くした親は、冷静な判断ができないのだ」

と言ったなら、

「差別」になるということだろうか。

 

私の場合、

あゆみを亡くした悲しみは、怒りにも似ていた。

でもこの怒りは、

やり場のない怒り、矛先が見いだせない怒りだった。

 

だから誰かのせいにしたがっている

と決めつけられるのは、すごくいやで、

崖を転がり落ちたあと

上から踏みつけられたほど、いやだった。

 

ステレオタイプ < 偏見 < 差別

という順番があるようだが、

偏見だって、決めつけだって、

とってもいけない

と思い至った。

 

差別のように、実質的な「不利益」は生じなくとも

本人が傷つくような言葉は、

最大級でいけないこと、と思う。