何が叶っても「よかった」にはならない
2024/07/05昨日書いた、
熱中症で亡くなった3才の女の子の
裁判の判決が出たあと
お父さんの言葉は、本当に重みがあった。
実刑という言葉を聞いた時にホッとした
ということを述べられたあと
「だけれど、それで、『よかったね』とは言えない。
いつも謝っているので、
きょうも『ごめんなさい』と謝ると思う。
私たちが経験したことがない苦しみを味わいながら
亡くなったので、実刑になって単によかったとは
思えない」と語られた。
何にも悪くないお父さんが
毎日謝って過ごしてこられたんだ・・・
処罰は求めるし、反省してほしい、謝ってほしいが
たとえ、それが実現しても、
何がどう叶ったとしても、
「よかった」にはならないと私も思う。
亡くなった子が戻って来ない限り。
そして、ちなちゃんのお父さんは
私が記者会見などを見るたびにフシギに思える
ある言葉を、言っていない。
私は、そのほうが腑に落ちる。
「よく報道される、(被害者遺族が)
うちの子で最後にしてほしいという
他の子の命のことも考えられる素晴らしいコメントは
私には言えない」と語られた。
よく耳にする、
「こんな思いをするのは私たちだけで十分です」
も同じだ。
そこまでの利他愛を抱かずとも
その子の親は、その子のことを全力で言う。
このことが、真実味を持って鋭くの人の心にささる
ということのように私には思える。