「複合的な喪失」と存在の大きさは別

2024/07/30

お子さんを亡くされたお母さんと話したあと

ふと庭の植木を見て、思った。

知らぬ間に、

どこからともなく蔦(ツタ)が伸びてきて

木全体に絡まっていた。

 

覆われた木が、苦しそうに思え

ツタをハサミで切って取り去った。

本来の姿になった。

 

さらに思った。

先日も触れた、「複合的な喪失」のこと。

大切な人を亡くしたあと、

さらに多くのものを失うことがある。

夢・生きがい、友人・コミュニティ・健康などなど。

私の場合は

「写真」や「旅行」も加えた。

 

で、遺族が「多くを失って苦しい」と話すと、

元の喪失が大きいように聞こえることがある。

つまり

亡くなった人の存在が、あまりに大きく、

そのため多くのものを失ったように。

 

これは、ちょっと違うかも。

亡くなった人の存在の大きさと

附随して複合的に失うものの多さは

別、と考えたほうがいいだろう。

 

ツタが絡まっている木も

絡まっていない木も

(ツタを取り払った木も)

木の大きさは、同じなのだ。

 

きょう、お母さんが言われていたことを

もう一度思い返した。

 

旅行に行っている。

亡くなった子と行った旅先にも行く。

「つらいのは、行かなくても変わらないですから」

そう言われて、ハッとした。

 

私は、思い出の地に行けないタイプではあるが

でも、行けないほどつらさを抱えている

というのではなく

行くと、つらくなるタイプなだけで、

この「タイプ」が、

元にあるつらさ、喪失の大きさを示している

というのではないのだと、

きょう思った。