いまも私は自分を発見しつづけている
2022/06/04昨日は、ちょっと思い違いをしていたみたい。
遺族が生きていくうえでの「意味づけ」は、
ものごとを良いよう結び付ける、以前に、
悪い「結び付け」かたを、相当一杯して
自らを、かなり追い込んでからでなければ
生きやすくなるような「意味づけ」はできない
と思っていた。
でも、ちょっと違うことに気付いた。
死別後の、主だった出来事や、節目のところを
どう通ったかな?と振り返ってみた。
そしたら、
子どもの死と、新たに起こっていることを、
必ず追い込むような意味の取り方をしているわけではなく
ほとんどの事に対し
良くも、悪くも、受け取ろうと試みていた。
たとえば
(昨日の続きで考えると)
子どもが亡くなったのに、仕事を続けるのか?
という問いについては、先送りしたが
子どもが亡くなったのに、この家のローンを返すために働く
ということは苦痛になり
家を売った。
そしたら
私は、子どもも失い、住むところも失い
どれだけ失ったら収まるんかな?とか
自分は正常な判断ができなくなってるんかな?とか
余計な不安まで抱えることになってしまった~
でも、こうも考えた。
あそこに、あのまま暮らして
同い年の子たちの、目を見張るような成長を
喜んでいるのか?ねたんでいるのか??
もう混乱しなくてよくなったことは、
すごく楽になれた~
でも、引っ越したら
あゆみがいたことを、誰も知らないところに来てしまい
さいしょから、いなかったみたいに
私がしてしまった~
てな具合に、
「悪い」ほうばかり考えるのでなく
「良い」ほうにも考えるのだけれど
おしなべて
「悪い」結び付けのほうが数が多いように思えるのと
「悪い」結び付けほうが、
ずどーん
と落としてしまう落差が大きいため
日の浅いうちは
どんどん落ちていくみたいな感覚をもつ気がする。
きょうのインタビューでは
そんなことを話した。
このインタビューは、まだ続くので
まだまだ自分に発見があるような気がする。