「死を知るのと死を受け入れるのは違う」

2024/07/18

昨日、意味がよく分からなかった「虎に翼」、

きょう、意外な展開に、シュンとなる。

 

亡くなった兄のことを、褒めちぎったり、

分かったような口ぶりで言う年寄りに

若者がブチ切れたところで終わっていたが、

このことを語る別の3人が、それぞれだった。

 

A「もう何年も前に

戦死の知らせは届いているわけですから」

B「死を知ることと、死を受け入れるのは、違う。

事実に蓋をしなければ生きていけない人もいます」

虎子「だから語りたくないし、語られたくない」

A「みな戦争で誰かしら大事な人を亡くしているわけ

ですからそこは乗り越えていかないと」

B「そう言われると分かっているから、

彼は乗り越えたふりをするしかかなった」

 

ここまでのやりとりに息を呑んだ。

Aは、一般的な無理解者。

Bは、つらさを抱える人の心情がわかる人だ。

そう思って、見ていたら、

虎子の、意外な言葉がつづく。

 

「自分の話をされているようでした」

 

え?なんで?

と思うほど、たくましく見えてきた虎子。

実は、亡くなった夫のことだけは

言えないつらさを抱えていたのだった。

だから、娘から、どんな父親だったのか

と聞かれても、話せていない。

 

働きぶりや、外見からは

わからないものだ。死別の悲しみは。

家のなかでさえ、何年にもわたって話せない人と

私も出会うが、その場合、

「語りたくない」だけでなく「語られたくない」

もあることがあり、

家族との会話が、極端に減ってしまうことがある。

 

虎子の場合も

小学生の娘との間に「みぞ」ができている。

語りたい・聴きたい家族と

語りたくない・語られたくない家族

1つの家族であっても、

親子であっても

悲しみの持ちようは同じではない。