引っかかった2つ目「乗り越える」

2009/07/14

2つ目は、「乗り越える」のところですよね!
って、メールくださった皆様、ありがとうございました。
アタリでございます。

前回の、つづきです。
子どもを失うことは、ほんとうに大変なことだろう。
というところまでは、
大抵の人が想像を働かせ、理解を示してくださいますが、
ところがその後につづく、大抵の言葉に、
違和感をもってしまう。

悲しみから「立ち直る」だったとしたら、
耳に入ってきても、差ほどの引っかかりはないが、
できれ私は、悲しみから「立ち上がる」
と言ってくれるほうが、しっくりくる。
立ち直る、と言うと、ケロッとしたイメージがあるが、
立ち上がる、と言うと、ヨイショとふんばる、重みがそこには感じられる。
単なるイメージや、個人的嗜好を言ってるのかもしれないけれど、
かける言葉を、考え、選らぶところに、思いやりの心は、
そっと織り込まれるものだ。

こうした言葉の「引っかかり」のなかでも、私は、
悲しみを「乗り越える」を、どうも受け付けないのだ。
子どもを失った、その悲しみを、乗り越える。となると、
当時の私には、子どもをまたいで行くみたいな、
悲しみと一緒に、子どもも置きざりにしてしまうような、イメージが濃く、
とてもそれはできない。と思った。

10年も経つと、いろんなことが変化する。自分も、周りも。
おそらく私は、自ら立ち上がり、自分の足で、ずいぶん歩いたと思う。
それでも、「乗り越える」には、未だ違和感がある。
なぜなのだろう。

言葉の壁にぶち当たると、いつも私は人に相談する。
先日、私より前にお子さんを失われたYさんに、このことを尋ねたとき、
素晴らしい手がかりをいただいた。
Yさんがおっしゃるには、
「乗り越えるって、なんだか、戦って、勝つ。みたいですよね、
戦うことでしょうか。
勝たなければならないでしょうか。」
ここまで聞くだけで、私は、ずっとひっかかっていた大きなカタマリが、
ストーンとおなかの底まで落ちていくのを感じた。

子どもを失った。という体験と、自分とは
どこまでも切り離せないと思う。
失ってからも、絆といわれる糸で繋がっているのだから。

悲しみをたずさえて生きている人は、
他人の痛みに対しても、敏感であるし、
ものごとに対する考えが、深い。

何事も、一世一代の体験というのは、乗り越えてしまっては、
惜しいと思う。勿体無い。
何度でもそこに立ち戻り、
そこで考えを深めていくといいのではないだろうか。
苦しむ本人に、知恵と勇気を、たくさん与えてくれると思う。