11回目のこの日
2009/02/27 今朝は夫に起こされた。
いつもは起こさないように気をつけてくれているけれど、
きょうはあゆみの命日だから、「お墓に行こ。お墓、きょうは行くねんで」
と何度も言われ、一旦は起きていったものの、
「あーー、急にしんどくなってきた」と言って布団に戻った。
そのまま待ってるのが、あゆみの父親。
1時間くらいねばって、しずしずと戻っていき、
一緒に十三のお墓に行った。
私は途中でお花を買い、
夫はコンビニに立ち寄り、お菓子やカルピスを買っていた。
あゆみのお墓は、お寺の本堂の横にある。
住職さんが遠目に見ていることに気づいたので、頭を下げると
そばまで来てくれた。
私が気づかないふりをするか、確かめていたような気がする。
あゆみを失ったあとの1年間、
毎月、十三から上新庄の自宅までお参りに来てもらったが、
私は泣いてばかりだったので、
いまも、すごく、私に気を遣ってくださっているのを(びびってる?)を感じる。
そうだったなあー。
私は、泣いてるか、ぼーっとしているか、
ヘンなこと言ってるかだった。お坊さんの前では。身内の前でも。
ヘンなことというのは、
あゆみが戻ってくる方法はあるような気がするとか。
このまま会えないはずがないとか。
ああいうこと、何度も、いろいろ、言えてよかった。
ああいうこと、そのときでなければ、言えないし、
そのときでなければ、ああも多彩に、独創的に、考えは巡らない。
言い尽くして、ようやく、やっと、あきらめられた。
言わずに、あきらめられただろうか?と考えると、
そういう無理なことをすると、心か頭が壊れたような気がする。
あきらめたといっても
考えなくなったのではまったくなく、
存在が軽くなったのでもない。
変化は、
現実を自ら生きるようになった。というだけのこと。
上新庄の家も、十三の家もなくなり、
二度ともう自分の家は持てないだろうな、と思うと
夫がかわいそうで、申し訳ないと思う。
でも、家なんか持てなくてもいいよね。
住宅ローンを払うためには私も職につかなければならなくなるし
そういうことに費やす時間は私にはないのです。
ごめんね、お父さん。