「ある」ことに気づく
2007/02/11 修士論文というのを、最後のほうはもう寝ずに、食べずに、命がけで(は大げさですが)なんとかぎりぎり書き上げて提出しました。
日々ご遺族の皆さんから教えていただき、学ばせていただいていることを元に書いたのですが、文中に、「存在の大きさは、それを失ったときにはっきりと浮き彫りになる」という一言があります。
指導教授の先生から「ココのところを詳しく具体的に述べるように」と指摘されたので、家に帰って考えました。
その1行前は、『子どもを失ってはっきりと分かったのは、子どもが親を必要とした以上に、母親である私のほうがあの子を必要としていたことです』。というKくんのママが話してくれた言葉です。
ひとり言: ものすごく大事なもので、あって当たり前になってて、価値に気づかないようなものはー ダンナか?
夫: なにぶつぶつ言うてんの〜
私: あ、父さん父さん、いいとこに来たわ。すごく大事なものでね、有って当たり前みたいになってるものって、水とか空気とかのほかに何がある?私くらい?
夫: 明日や。
私: 明日…
夫: 水や空気も、明日も必ず有るとは言えんけど、でもたぶん有るよ。明日も、たぶん来るけど自分に来るとは限らへん。来ると思ってるやろ?それは思い込みやねんで。
私: もう無言で書き始める。
そしてこの節の締めくくりを具体的にすることができました。
存在の大きさは、それを失ったときにはっきりと浮き彫りになる。身の回りの物も同様で、どれほどそれが役に立っているのか考えなしに使っている。まして人間にとって最も必要な、生きていく上で欠くことができない大切な対象ほど、あまりに自己の生と密着しているために、その価値に気づかないどころか、「ある」ことにさえ気づかず過ごす。空気や水がそうだろう。空気や水はおそらく明日も同じようにあるが、健康や家族や自由といったものは明日もあるとは限らない。明日という日も、おそらく同じように来るのだろうが、自分に来る確証はどこにもない。大切な何かを既に失った人は、失う痛みを知っているだけに「ある」ことに対し、常に敏感である。彼らは、人間の愚かさも、傲慢さもよく知っている。