人の死と教訓は直結しない と思う

2004/08/10

 闘病を経て、この1年間の取り組みでそれまでと変わったのは、望んで小中高の教室に出向くようになったことです。「いのちの授業」の依頼を受けると必ずどこへでも行きました。
 
 授業といっても、命や生は「教える」というものではありませんので、私が実際に体験したことや、見聞きしたこと、そのときどきに思ったことを語るだけです。そのなかで「死」についてたくさん話します。
結論をつけずに(こちらが答を出さずに)話しきることは難しいなと思いますし、常々大人は子どもに対し、いかに押し付けがましくくどすぎるかも省みられます。

 そんななか、何校目かに行く準備していたとき、ハッと思い出しました。もう25年ほど前の高校生のときの出来事を。
朝1時間目が始まる前に、珍しく放送が入り「○年○組の○○君が亡くなりました」と聞き取れました。○○君は前の学年で同じクラスだった男子で、特に親しかったわけではないけれど、普通に毎日いっしょに過ごした子。びっくりして、何が耳に入ってきたのか、何がなんだか分からなくなりました。

 私にとって初めて人の死で呆然となった体験でした。放送はとても短いもので、黙とうをし、すぐにむすびの言葉となった記憶があります。
え?なんて?どういうこと?そんなん ありえないよ どうしよう… まばたきもできないくらい固まって考えをめぐらせたように思います。

 放送は校長先生か教頭先生だったと思いますが、すぐ終わってしまい、私だけが取り残されたような気持になりました。
ぜんぜんわけが分からないのに、もう何も聞こえてこない。
むすびの言葉だけ耳に残りました。
≪○○君の命を無駄にしないように、皆さんしっかりと生きていきましょう≫
これが人の死を告げるエライ先生の言葉として記憶に刻まれました。

 ものすごくへんに思いました。なんでそこにつながるの?ぜんぜん意味がわからない!
このときのことは、何度も思い出しては、何であの言葉だったんだろう?と繰り返し考えていたのですが、いつしか思い出したり考えたりすることがなくなりました。大人になるにつれ理解していったということではなく。

 ハッとよみがえり、25年たって改めて考えたことは、大人になっても何年生きてきても、人の死はそう簡単に理解できるものでないし受容できるものでもない だからさまになる言葉で手っ取り早く結んでしまってはいけない ということでした。

 当時の私がどんな言葉がほしいと思っていたのだろうということも考えてみました。
おそらく、「なんでこんなつらいことが起こるんだろうね。先生もぜんぜん分からないし悲しいばかりです」のように言ってほしかったのではないかと思えます。すぐさま「無駄にせずしっかりと」ときたものだから、○○君に対して心無い響きとなり耳についてしまったと思えます。

 身近な人の死は、生きていく上ではかり知れない多くのことを教えてくれるのですが、その人が自分たちの住むこの世界からいなくなってしまった、もう二度と会えない、悲しさや無念ややりきれなさを十分に感じる時間を通らなければ、段階を飛ばした教訓からは何も得られないばかりか、信頼さえ揺らぐと思うのです。

 自分が子どもたちの前で生と死について語るようになったこととあのときの出来事も、直結はしてませんが、私の成長の根底にずっとあったのだろうと思うようになりました。
子どもの頃に感じたことを忘れないように大人になることはいいことだと思いますし、思い起こしたらすぐにその頃の自分に立ち戻れることは大事だと思うようになりました。