聴くことができなかった本音
2008/10/13 子どもの人権を主体とした研修会があり、「生きる」ことをテーマに話した。
折れない心を培うためには、強さよりも弾力が必要だとか、
弾力を養う要素は、負(ふ)の体験のなかに多くあるとか、
けれども、あきらめも大事だとか、
あきらめるためには、どういう人の存在が必要だとか、
いろいろ、いろいろ、話して、
人が生きていることには価値がある。しかし、
人は生きていることだけに価値があるのだろうか?
その子が生きているそのことに価値があると感じるのは、親やその子の身近な人であり
その子自身がおく価値ではない。
しかし、親や身近な人は、「君がいてくれてよかった」としっかり伝える必要がある。
なぜならば、とまだ続くのだが、
そんな話を熱心に、聴いてもらえた。
質問の手は挙がらず、だいたい共感してくださったことにした。
ところが。
会場を出たところに、一人の女性が立っていた。
私も子どもを亡くしました。自死です。と教えてくれた。
私は、頭の中でさっき自分が話したことを急いで引っ張り出したため、
大量の言葉と文脈が頭の中をぐるぐる回り、くらくらした。
自死も含め、亡くなった子を否定する言葉を口にしたことは一度もない。
しかし、あの話は、自死した子の親の愛情を認めていない内容に受け取れる。
その方は、何もおっしゃらなかったが、自分でそう思える。
話しながら駅まで歩き、改札まで来てくださったが、
次来る電車に乗らなければ、次の予定に間に合わない。
こんな大事な話の途中だというのに。
これほど時間がほしいと思うことは、なかった。
もう一度会うことができればと、名前も住所も分からない人のことを
きょうも考えて過ごした。
もう一度会うことができたら、
改札口でまだ話してくれそうだった「何か」、を聴きたい。