教会に行ったこともない私ですが

2008/10/18

悲嘆ケアや、スピリチュアルケアについて学ぶ講座が充実してきた。
私も時折お話させていただいたり、また自分でも受講したりする。
お話しをさせていただいたときは、必ず帰り道で、不十分を反省し、
受講した帰り道では、心に響いた内容を反芻するように思い返す。

行き帰りというのは、目的を同じくする人と電車やバスに乗り合わせることが多い。
持ち物(チラシや抄録)で分かったり、雰囲気で分かったりすることもある。
とはいえ、知らない人なので声を掛け合うことはないが、どこかホッとさせてもらう。

ところが、サムクなることもある。
ある研究会へ行く電車で乗り合わせた御一行は、
シートを対面にし、ケアのあり方をめぐって車両に響き渡るディスカッション。
電車は貸切りではないって。貸切りだったとしても、相当つらい。
ケアの勉強をする人は、普段、そばに居合わせる人の心もちに関心がもてないでは…

きょうの講師の先生は、素晴らしいお話しをしてくださった。
知っている人の話も出てきたので、より感慨深く、反芻しながらバスを待っていると、
前を並んでいる人が大きな声でおこっていた。そこにはいない人のことらしい。
いいお話聴いたあとすぐ怒ったら、薄まっちゃうよー と思い
聞くともなく耳に入ってきた言葉は「祈りが足りないからよ!」

コワイと感じた。
どんなに願っても、かなわないことがある。
どんなに頑張っても、力の及ばないことがある。
どんなに失いたくなくても、この手をすり抜けてしまうときがある。
祈りが足りなかったからだろうか…
私もそんなふうに愕然と考えたことがある。
でも、そうではないと思うようになった。
祈りが足りなかったから神様が取り合ってくれなかったのではないのだと思う。
祈りようでかなうのだとしたら、人間の力の範疇ということになる。

やはりこの世には、人間の力でどうにも動かしようのないことが、存在すると思う。
生きているということは、そういうこととも出会う。ということを意味するのかもしれない。
それでも、祈ることは、大事で、かけがえのないことだと思う。
本当の祈りというのは、とても静かで、そうそう人目に映るものではないように思う。