丁寧にいうと「死亡」
2008/12/01 私の日常には、子どもが亡くなる話や、喪った人とのかかわりがあり、
子どもを失った親御さんの話を聴くことが大好きであることからも
自分は死というものに違和感がなくなり過ぎているかもしれない。
亡くなった子どものことを、話さずにおれない親の言葉というのは
どんなにその人が怒っていても、弱っていても、
子どもへの愛情そのものは、とても健全に息づいていていることが多い。
だから、悲嘆の感情を含め、聴いていて滅入ってしまうということはない。
むしろ、元気な子どもの親の、浅はかな愚痴を聴くほうが疲れる。
けれども1つだけしんどいのは、
「死」や「亡くなった」という言葉を使いたくない考えのご遺族に
言葉を慎重に選びながら話すことには、ちょっとだけ疲れる。
私は当初から、亡くなった子は死んだのだと考えてきた。
その死が受け入れられないことや、亡くなったことがつらすぎる
ということについてはもちろん理解できる。当然。
きょう(12月1日)の朝日新聞に興味深いことが書いてある。
「死亡」というのは人間にしか使わない丁寧な表現なのだそうだ。
「パンダが死亡しました」というと、44%の人が、おかしいと感じていたという。
そうかー 気づいていなかった。
私は、人の死、子どもの死、という表現をよくするが、
もっと丁寧に「子どもの死亡」とすれば柔らかくなるか、というと
死を表わす言葉がしんどい人にとっては、丁寧かどうかより、
この類はどれもだめかもしれない。
しんどいうちは、しんどいことから、守って差し上げなければ、と思う。
ただ、いずれ、慣れていただかなければ、とも思う。
なぜなら、遺族の課題の最初にあるのが、失ったという事実を「認める」ことで、
ウォーデンという研究者はこう表現している。
「悲嘆の最初の課題は、その人が死んだという事実、その人が逝ってしまい、戻ってくることはないという事実に直面することである。」
この課題だけでも相当きついのに、このあと課題はまだいくつもある…。
大変だけど、長い道のり、ゆっくり一緒に歩いていきたい。