悲しめる余裕

2009/01/06

失った経緯や子どもの年齢は違っても
どちらが先に失っていていも
子どもを「失った」という経験を通して
親同士、初対面とは思えない出会い方をする。同じだーと。

ところが
片方にさらに何かが起こったりすると、
「同じ」ではなくなってしまい
お互いに、気を遣う。

その人は、がんになった。
がんは、私も先にしていたので
周りの人からは、「あなたは経験者。きっとわかってあげられる」と言われた。
でもそれは違うと思った。

子どもを失った体験は、対等なところで固定される。
どういう原因で、どういう亡くなり方をしていても
「死」に違いはないからだ。
亡くなり方で悲しみ方も違ってくる。という風にも言われるが
死に、とても悲しい死、少し悲しい死、なんて区別はなく。
死としては平等だと思う。

平等だった彼女と私の間に
新たな病気が介在し、
私は病気を克服できた元患者で、彼女は進行していく患者となると
「先に体験しているから分かってあげられる」なんて、とんでもない。

痛みがきついと聞き、「顔を見に行きたい」と言ったが
やはり断られた。
その時、彼女が言った。
【亡くなった子のことは、もういいと思ってるの】

そう、私たちは亡くなった子のことで繋がっていた関係。
そこが「もういい」となったとき、距離を置くのが自然の流れだ。
それにしても、あの言葉は何を意味していたのだろう。
自分がもうすぐあっちへ行くから、もういいということだったのだろうか…

さいごまで、真意を確認することはできなかったが
亡くなった子のことを想い、しみじみと語れるのは、
余裕のなかでできることなのだと知った。
体力の余裕、時間の余裕、そして心の余裕。
悲しめるということは、さまざまな余裕を得ているということ。
失ってからも与えられているものがたくさんある
ということに、気づかなければいけない。