うまく「する」こと以上に感じる心のほうが大事なのだと思う。

2009/10/25

先月から今月にかけて、
あまりこれまで接点のなかった業界の人たちとの交流が続いていた。
それは、葬儀業に携わる人々。
先月から打ち合わせが始まり、今月、全国大会のような行事を終えた。

子どもの通夜・葬儀・告別式には、さまざまな配慮を必要とするため
子どもの遺族会からお願いしておきたいことがたくさんあって、
私は大会に協力することにした。
大会当日は、うまくいったように思う。
私の発表もよく聞いてもらえた。
仕事に熱心で、誠実な人が多いことを知り、うれしかった。

とても印象的で、気掛かりだったのは、
打ち合わせの席で、一人の業者の人が言った言葉だった。
その人は、小さな子どもを失って悲しみに沈んでいる母親に
ほとんど声をかけることができないまま、父親や祖父母とのやりとりで、
ことを進めたという反省を、打ち明けられた。

私は、どんなに悲しんでいても、母親には、
見送るわが子のために、いま、このときに、何をしたいか、あるいはしたくないか、
それを聞き取らなければ、またあとで、はないのだし
それを聞き取れるのは、あなたたちしかいないのだから、
というようなことを言った。
その人は、わかってくれたようだったが、とてもつらい表情を残した。

私は、その表情が痛々しく思え、
帰りの新幹線のなかで、ずっと考えていた。
あの人が悩むのは、無理もないと思う。
悲しんでいるから、言葉をかけらえない、というだけではない。
子どもを看取ったすぐあとに出会う関係であって
事務的なこと、形式的なこと、そしてお金のことを、次々ともちかけるのだから
気が引けて、当然だと思う。

今しか聞けないこと、今しかできないことを、実行する
ということも大事なことであるけれど、
私たち子どもを失った親が、もっとも望むことは
気持ちを汲んでくれること、思いを馳せてくれること、
そして、無神経でいないでくれることではないだろうか。
それを思うと、
年中のように遺族と接することを仕事としながらも、
繊細な心を損なわずに持ち続けてくれていること、それこそが
何より大事なことで、
そこを指摘するような言い方をしたことを、悔やんだ。
私のほうこそ、とっさに口にする言葉を、深めなければいけない。