10年ひと昔といいますが、老い(若返り)を切実に考えた瞬間
2009/11/10赤ちゃんの死について考えるセミナーに出席し、お話しをさせていただいた。
赤ちゃんとは、どのくらいから、どのくらいまでを言うのだろう。
一般的には、子どもと呼ぶには小さすぎる時期、というイメージかもしれないが、
「私の赤ちゃん」として言う場合、
両手に抱くくらいの赤ちゃんは、とても大きいほうで、
片手に乗る赤ちゃんや、もっと小さく、まだ体の形が出来ていない赤ちゃんも、存在する。
私は、あゆみはとても小さく、子どもというより、赤ちゃんの感覚があるのだけれど、
場所によって、あゆみがとても大きい子になるからフシギ。
この日、興味深いお話を伺った。
私の後に発表された方は、赤ちゃんのもつ重い病気のために、
人工流産の処置を受けて看取ったご本人だった。
どんなにか赤ちゃんの誕生を望んでいたのに、病むに病まれず受ける処置を、
中絶と言わないでほしい。と主張された。
また、流産・死産の当事者が交流するインターネットの掲示板に、
「中絶の方お断り」の表示があるらしく、
中絶とひとくくりにしないでほしい、ということも訴えた。
確かに、妊娠中絶という言葉は、ショッキングなもので
中絶には、世間の「偏見」も向けられていると思う。
私にも同じような経験がある。
あゆみを失ったあと、1度だけ妊娠に恵まれたものの、
心音を失った赤ちゃんをあきらめ、除去手術を受けた。
このことを話すとき、中絶という言葉を用いていた。
ほかの言葉を知らず、言葉そのものにはこだわりを持たずに。
前述の発表者の話を聞きながら、
確かに、人工流産という言葉で表現するほうが、いいと思った。
産むことを選べなかった人と、産むことを選ばなかった人とは、立場が違うとも思う。
がしかし、赤ちゃんのもつ問題以外の事情で、出産を断念せざるを得なかった女性は
悪者なのだろうか、偏見を持たれて当然の存在なのだろうか
という問いは、残るように思えた。
この日は、そういったことについては触れず、
「いいお話しをありがとうございました。
本人でさえ中絶という言葉を使っていましたわ」
と語りかけた私に、かけてもらった言葉は、
「昔はそれが当たり前でしたものね」
ガビ〜ン。
マンガで描かれる顔みたいに、目が××になったかも。