自分が嬉しいことを相手にもするのは、幼稚園児もします。

2009/11/29

昨日、授業中、先輩にあたる方が受けている指導を聞きながら
いろいろ、考えた。

その方の職業は、臨床心理士で大学教員らしい。
発達の問題をもつお子さんと、個別に遊んでいる。
遊びながら、反応を調べている模様。
その子どもたちのもつ課題は、相手の気持ちを感じ取ることらしい。

遊びは、一人でするよりも、誰かと一緒のほうが、楽しい。
でも、そう思えるのは、人とうまく遊べる子どもで、
相手が何を考え、どう感じるのか、さっぱり分らなければ
人と遊ぶことも楽しくないし、仲間に入れてもらえなくなる。

相手の気持ちを感じ取ること、それは、
自分はこう感じるから、相手もおそらく同じように感じるだろう、
と想像することに始まる。
これ実際は、かなり高い能力だろう。
ほかの動物とは違う、人間らしさの象徴とも思える。

ある程度の年齢になった子どもは、こういったことを、自然にこなす。
人の顔色を見ることは、赤ちゃんもするから、すごい。
私は思った。乳幼児ができるのは、すごいけれど、
ココ止まりのいい大人が、たくさんいるではないの。
自分はこう感じるから、他人もそう、遺族もそう、と
思い込んで、行動に移す大人たち。

「がんばって」と言われ、つらかったという遺族もいるし、
「泣いていいのよ」と言われて、ウザイと思った私もいる。
別に、あなたにお許し頂かなくても、泣きますしっ、なんて。
せっかくの親切で、言ってくれている言葉に対し
そんな風に思ってしまう自分に、また疲れていったものだ。

ただ、考えてみると、つらい、あるいはウザイ言動のほとんどは、
「自分だったら」でしか、考えられていないものではないだろうか。
楽しいことであれば、人も誘えばいいし、
二人ですれば、二倍楽しいと思う。
けれども、つらい気持ち、特に死別によるつらさは、
遺族の数だけ存在する、と考えるほうがいいだろう。

仮に相手の気持ちを考えたうえで、行動したとしても
そうそう大きなが悲しみが、半減したりはしないのだけれど、
でも、「自分なら」で推し量るのではなく
照準を「相手のきもち」に合わせるのでなければ、
幼児どまりですか?
ということになる。

よく遺族に向けてかけられる言葉
「あなたは強い 私だったら きっと生きてはいけない」も
一見、敬意がこめられているかのようで、実は、
必死の思いで生きている人の、生を、
否定するように伝わっていることが、多い。

「私なら」が通用しない感情の世界。
とても高度であるけれど、
響きあうとき、究極の人間理解が姿を現す。