「わかる」の代わりにほしかったもの探し、これからも続く。

2009/12/04

2009年12月1日の読売新聞夕刊に、「たしなみ」というタイトルの
興味深い原稿を見つけた。
作者は、鷲田清一氏。哲学者とだけあるが、大阪大学の総長。
短い文章なのだけれど、そこに3つの大きなテーマが含まれると感じた。

1つ目のテーマは、「聞く」ということについて。
人と話すときに、よく「わかる、わかる」と言うことがある。
そうすると大抵、言う側も、言われる側も、盛り上がる。
ただし、世間話や愉快な話の場合に、だと思う。

自分が苦しい思いをしているときや、
大きな悩みを抱えているとき、その思いを打ち明けたとし
「わかる、わかる」と言われたら、どうだろう。
筆者は、次のように書いている。そのまま引用する。

「そんなにかんたんにわかられてたまるか」と言い返したくなる。
それどころか、「何がわかったの?」と嫌みの一つも言いたくなる。
いくら言葉を重ねても通じないときは、
話す前よりもいっそう深いふさぎにとらわれる。
反論されると、意見を訊くつもりだったはずなのに、
「言わなきゃよかった」と後悔する。(引用おわり)

私は、面白いほど、そのとおりだと思い、笑いが込み上げるほどだった。
そうして笑う自分に、ハッとし、
あんた、だれ?と思った。
上記の文面の、鍵カッコで示されている人物は、かつての私なのに
その私が、いま笑ったことに、
それこそ、皮肉の一つも言いたくなった。
「よくも、まあ、笑えるようにまで、なったよね」と。

かつて、何人に対し、何度思っただろう・・・。
そんなに簡単に分るわけがないでしょ。
「わかる」と言う言葉で、誰よりも理解者だと、認められたいから?
逆だよ。理解者なんだったら、解り得ないほどの思いでいてよ。
もっと、なんにもできない無力さに、苦しんでよ。
少なくとも、そんなに簡単に、わかったつもりに、ならないでよ。

そんな私が、新聞を片手に笑ったことに、
心の中を、冷たいものが、すーっと通り抜けた。
怒りたいくらいだったけれど、
笑ったり、怒ったりしたら、益々収集がつかなくなるので
とても大きなため息をついて、収めた。

前述の、原稿のくだりの文末は、こう括られている。
「聴いてもらう側には、わかられ方への
それなりの要求があるわけである。」

まったく、そう。
「わかられ方」という表現が、みごとに的を射ていると思った。
「わかられ方」にこめるのは、期待以上の、まさに要求なのだ。

かつての私も、そう。
結局のところは、わかってほしい、という思いはあった。
とっても、あるのに、
すんなり「わかる」と言われてしまうと、
わかるわけないでしょ!となってしまう。
なんと気難しい。

じゃあ、どうしてほしかったのだろうか、と考えると、
相当、黙って、聴き、ようやく、、、
いや。「わかる」は、言ってもらわなくてもよかったように思う。
言ってもまあ構わないけれど、
相当、黙って、聴く。
ということは、絶対に、不可欠。譲れない。

いまの自分は、聞く側に居ることのほうが多いけれど、
黙って聴く。というところだけは、
これからも、あと何年経っても、踏み外したくない。

よほど集中して聞いているからか、
ほかでは抜けまくり。
また自転車盗まれたのか、と思いきや
乗って行ったのに、乗って帰ってくるの、忘れてた〜

「たしなみ」の読書感想文、次回につづく。